38 ガラスの人形
中国の長江技術が、昭和テクノロジーの買収に際して1.5兆を用意しているという記事が、ついに日本経済新聞の第1面横見出しに掲載された。クリスマスを直前にした12月23日のことだった。
御手洗が向こうの情報をグリップしてから3週間も経たない、スピード感あふれる動きだった。マスコミに取りざたされた以上、具体的な対応が必要になったわけだ。
ダイニチ東京本社では連日役員会が開かれ、専門家や大学教授を招いて今後の方針を協議した。
記事によると、長江技術側は年明けにも昭和テクノロジーとの直接交渉に向けて準備を進めているということで、ダイニチとしてはそれをくい止めるべく、待ったなしの決断が求められた。
そんな中、一井はどうしても100%仕事に集中できない自己を認めずにはいられなかった。目の前で騒ぎ立てていることが、自分が権限を握る案件だという実感がわかずにいた。
ひょっとして、この仕事から降りた方が良いのではないかとさえ思った。
役員会での主役は間違いなく御手洗だった。
彼は連日にわたる残業で作り込んだプレゼンテーションを担当した。長江技術を上回る投資をしても、最短で7年後には回収できるという試算をはじき出し、数々のエビデンスを揃えながら論理的に熱弁をふるった。世界の超一流大学で修行した成果が発揮されていると、つくづく感心しながら見守った。
「いやあ、あの御手洗という男は、たいしたもんだね」
役員会が終わった後、新しく会長に就任した
「かなりの学歴を持っているのですが、実力も兼ね備えていますね。相当鍛えられています」
「いやいや、それは一井専務が鍛えとるんでしょう。大学の教育だけじゃ、あそこまではならんよ」
そう言われて自分が恥ずかしくなるばかりだった。
「ワシは、2兆までなら用意してもええと腹の中じゃ思うとる。グローバル競争は積極的に先に攻勢をかけた方が勝つ。これからは間違いなくクラウドの時代が来る。半導体事業は、ますますなくてはならんだろう。2兆積んだとしても、それだけの価値はあるよ。御手洗君の言うとおりだよ」
一井は新しい会長に頭を下げた。
「俺は何もしてないのに、会社の方が勝手にちゃんと動いてるよ。これっていったい、どういうことなんだろう?」
江里のマンションで一井は首をひねった。
「あなたは役員なんだから、部下の人たちの提案に対して決断を下せばいいんでしょう?」
「まあ、そうなんだけどね」
一井は限定醸造のヱビスビールを飲んだ。
「林田が亡くなったことをみんな忘れちゃってるよ」
「みんなそれどころじゃないのよ。自分のことで精一杯なのよ。言い方がきついかもしれないけど、晴明さんも、そのうち心が整理されるわよ。それが人生なんだと思う」
そういうものなのだろうかと思いながら、グラスに入った金色のビールを眺める。
「で、うまくいきそうなの、買収の方は?」
江里は、野菜がたっぷり入った手製のサラダの中のエビをフォークでつつきながら聞く。
「どうなんだろうな? なにせ相手が相手だからね。たとえばこっちが相手と同じ額を用意すれば、向こうはさらに高額を突きつけてくるかもしれない。もはやM&Aの話じゃなくて、マネーゲームっぽくなってるんだよ」
「それほど中国企業はお金を持ってるっていうことね」
「それは間違いない。資金じゃ絶対に勝てない。中国企業が日本の大手を買収するなんて、10年前にはあり得なかったことだけどね」
「この10年で、何もかもが、ずいぶんと変わったのね」
江里はエビを噛みしめながら述懐する。
「まあ、いずれにせよ、今回のドタバタで、御手洗がどれほど本気なのかがよく分かったよ。熱量じゃ、長江技術に負けてない。会社として御手洗の提案を実行することになるだろう」
「でも、それでもし会社が傾いたりしたら、あなたが責任を問われたりしないの?」
「そりゃ、問われるだろうね。でも、それは仕方ないことだよ。降格されようが左遷されようが、受け容れるしかない。むしろ俺には、そういう経験も必要かもしれない」
「あなたがそういう話をすることって、これまでなかったわね」
江里は声を一段低くして言う。
「そうかな?」
「そうよ。あなたはずっと前ばかり向いて生きてきたでしょう?」
「そうでもないよ」
「何か、心境の変化でもあったの?」
「ないよ、そんなもの」
一井はビールを飲み、皿に盛られたチーズを箸でつまんで口に入れた。
「仕事に集中できていないみたい」
「考えすぎだよ。もしあるとすれば、林田があんな死に方をして、心に穴が空いてるんだ」
江里は肩で息を吐き、軽く目を閉じた。一井はたちまち息苦しくなった。
「嫌な予感がするのよ。もちろん、何かを疑ってるわけでもないの。でも、最近になって女の勘っていうか、嫌な胸騒ぎがするのよ」
「何を言ってるんだよ」
「いや、べつにあなたを疑ったりしてるわけでもないのよ」
「俺には疑われるものは何もない」
そう言った瞬間、口の中に残っていたすべての味覚が消滅した。
「うまく言えないけどね、あなたの中で、仕事も私も、だんだん存在が薄くなっているような気がしているの」
江里は左手で頬杖をついて、目を閉じた。
「今の仕事が一段落すれば」
少し間を置いてから一井は言った。
「俺も少しは肩の荷が下りる。将来の話はその時にしようじゃないか」
江里はゆっくりと目を開けた。
「将来?」
「俺たちの将来の話だよ」
江里はまるで冬眠から醒めたかのような顔で一井を見た。一井は新しいビールを手酌でグラスに注いだ。
「将来のことって?」
「まあ、その時にちゃんと話すよ。とにかく、今の仕事が落ち着いてからにしよう」
「それって、私が喜ぶような話?」
「だと思ってるんだけど」
ガラスの人形のように動きを止めた江里の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
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