35 死者の雄弁

 延暦寺の駐車場に到着したとき、辺りは霧のベールに包まれていた。

 電動パーキングブレーキのスイッチを入れ、エンジンが完全に停まった後、紫倉は丁重に礼を言ってベンツを降りた。まるで高校生のような仕草だ。

「なんだか、天上界に登った気分だね」

 一井はコートを羽織りながら言った。

 

 2人は延暦寺の総本堂である根本中堂こんぽんちゅうどうを目指して歩き始めた。一井には、石山寺での散歩の延長のように思われた。

「やっぱり、すごいところですね、ここは」

 紫倉は所々に紅葉が落ちる道を踏みしめながらつぶやいた。

不滅ふめつ法灯ほうとうを見てみたいって、ずっと思っていたのです」

「あの、最澄がここを開いたときに灯したっていうやつだね」

「そうです。平安京が開かれる前から、1200年以上灯され続けているんです。あそこは本物のパワースポットだって、友達から聞いたことがあります」

 一井は少し歩みを緩めて、紫倉に問いかけた。

「今日は、御主人の供養も兼ねているのかな?」

 すると紫倉の表情は冷淡さを帯び、そうかもしれませんね、と答えた。やはり、故人の話をするのは時期尚早かもしれないと思ったとき、紫倉はこう言った。

「主人も京都を愛しておりました」

「そうなんだね」

「どうしてあの人があんな死に方をしなければならなかったのかと思うと、その理不尽さに、狂ってしまいそうになりました」

 一井には言葉が返せない。

「でも、馴れって怖いですね。ある朝目が覚めたとき、あの人の死を受け容れている自分がいたのです。不思議なものですが、死んだ後になって、初めてその人と対等な話ができるようになる気がするのです」

「それは、ダイニチの会長も同じだよ。僕はいつも会長の声を聞きながら仕事をしてるよ」

 一井がそう言うと、紫倉は、なぜかぱたりと故人の話をしなくなった。


 いよいよ根本中堂の看板が見えたとき、杉林の隙間から琵琶湖畔の風景がうかがい知れた。

「うわあ」

 紫倉は久々に声を上げた。会長室で素っ気ない態度を取って胸を何度も締め付けられたのがウソのような表情だ。まして自分よりも年上だとも思えない。かわいい、と思った。

「琵琶湖でのパーティーが、懐かしいですね」

「僕は石山寺で2度もあなたと出会ったことの方が懐かしいよ」

 紫倉は真顔に戻り、話題も戻した。

「パーティー、すごく緊張いたしました」

「どうして?」

「私とは身分が違う方たちの集まりでしたから。ただただ恐縮して、自分がここにいて良いのかって、ずっと思っておりました」

「全然問題ない。今の世の中に身分なんて存在しない」


 次の瞬間、眼下には根本中堂の広大な建物が、深い木立の中に現れた。静謐せいひつで、圧倒的で、言葉を失った。

 2人はその建物に向かって、1歩ずつ進んでいった。氷のような師走の風が木立を揺らし、琵琶湖からやってくるほのかな水の匂いを運んでくる。

 本堂を囲むように作られた廻廊かいろうを抜け、いよいよ本堂の内部へと足を踏み入れる。煙が立ちこめていて、かなり視界が悪い。

 黒くて太い柱を抜けて内陣に向かって歩を進めるとき、紫倉はぴたりと足を止めた。彼女の視線の先には脇に正座している3人の尼があった。

「どうした?」

「いえ、あの方たちは出家なさったのかなと思って」

「出家?」

「女性なのに髪を剃って仏に仕えていらっしゃるのは、どんなご事情があったのだろうとふと思ったのです」

「あの人たちにはあの人たちなりの人生があるんだろう」

 一井は紫倉の背中を押して、強引に内陣へと進ませる。彼女に出家を考えさせてはいけない。


 本尊の薬師如来像の前で、2人は合掌礼拝した。一井よりも遅れて顔を上げた紫倉が恐る恐る声を上げる。

「あれが、不滅の法灯ですね。怖くて、頭がおかしくなりそうです」

 視線の先には、3つの釣り灯籠があり、内部に火が灯されている。

「夢みたいだ」と一井はつぶやく。

「信じられないです」と紫倉も呼応する。

 炎はただ揺らめいている。

 呆然と立ちすくんだまま凝視していると、ノイズが聞こえはじめ、身体が宙に浮いた。


「だから言ったでしょ、京都にはパワーがあるのよ」

 夏越はその細い指で日本酒のスパークリングを飲む。

「人として正しいことをするんだ。千年なんて、過ぎてみればあっという間なんだから」

 会長は白い髭の生えた口元からタバコの息を吐き出して言う。

「人は死んだ後になって初めて人間になれるのだよ。死んだら、批判されたり嫉まれたりしなくなるだろ。いいかい、一井君、よく覚えておきたまえ。死者がいちばん強いんだから」

 今度は女の泣き声が聞こえる。

「わたくしは、世の中のになるのが、何よりも恐ろしゅうございます。けれども、どうしても自分の人生を捨てることができないのでございます。終わった人間だと自分でも分かっておるつもりです。だからこそ、誰かが恋しくなるのでございます……」

 君は誰だ? と一井は言う。だが、いくら叫んでも女は返事をしない。

そのうち、笑い声が聞こえる。

「晴明ちゃんは『源氏物語』のワールドに入り込んじゃってるのよ」

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