34 メルセデスベンツと延暦寺

 師走の京都駅は、東京とは比べものにならないくらいに空気が冷たい。別の世界に迷い込んだのではないかと疑うほどだ。

 駅前に出て寒空にそびえる京都タワーを見上げると、1ヶ月前に会長の葬儀に来た時の光景がふと蘇る。あの時は社用車で林田が出迎えてくれた。石山寺で紫倉と再会したのは、その翌日だった。


 恋をする人にとって京都とは怖い場所である。


 夏越の言葉が冷たい風の中から聞こえてくる。

 昨夜遅くまで会議が続いたために後頭部が少し痛む。いや、この痛みは紫倉と会うことによる緊張かもしれない。そんなことを考えながら、彼女に電話をする。


 紫倉は地下街の入り口に立っていた。

 淡いグレーのコートを羽織り、桃色のマフラーを巻いている。彼女を見つけた瞬間、白いカーディガンを自宅に忘れてしまったことに気づいた。紫倉は決まりが悪そうに視線を逸らした。


 タクシーは東山七条の三十三間堂の前で停車した。

 一井はハイアットリージェンシー京都の個室を予約していた。

 通されたのは1階のミーティングルームで、一井のオーダーに合わせて2人が談話できるようにと机と椅子が特別にレイアウトされていた。窓の外には竹林のある庭園があり、和風モダンの室内には木漏れ日が差し込んでいた。

 紫倉は慣れない水槽に入れられた金魚のように、きょろきょろと落ち着かない様子だった。

「とりあえず、コートを脱いだらいい」

 一井は女性のスタッフに紫倉のコートを脱がせてハンガーに掛けさせた。

「飲み物を頼みましょう。コーヒーでも、ソフトドリンクでも、なんでも欲しいものを飲もう。アルコールもあるけど」

「いえ、アルコールは、ちょっと」

 紫倉は制止するように軽く手を挙げた。その仕草に、会長の別荘で行われたパーティーでの彼女の所作を思い出した。

「久しぶりだね。こうしてあなたと会えるなんて、夢みたいだ」

 一井は温かいダージリンティーを口にして言った。

「そうですか?」

 紫倉は表情を崩さないまま、視線を右下に逸らした。花柄のティーカップにも、小さな器に載せられたマカロンにも、手を付ける気配がない。

 今にも泣き出しそうにも見える。まるで、壊れる寸前の砂の城のようだ。

「どうして今、山口にいるの?」

「実家があったんです」

「つまりあなたは山口の出身なんだね?」

 紫倉は初めて頷き、若干頬を緩める。いかにも可憐な動作で、見ているこっちが恥ずかしくなるほどに心が惹かれる。

「でも、もう、実家は無くなってしまってるんです。それでもやっぱり、故郷に帰りたくなったんです」

「じゃあ今はマンションに住んでるの?」

「マンションっていうか、アパート、ですかね」

「なるほどね」

 一井は再び紅茶に口を付けた。紫倉もようやくティーカップを口元に運んだ。

「ご主人は?」

 しばらくして答える。

「亡くなってしまいました。プノンペンで」

「え?」

「もう、今から2年前のことになります。あと少しで任期が終わるところで撃たれたんです」

「撃たれたって?」

「日曜日の夕方に、向こうの同僚の方と食事を取っているときに、レストランの中で乱射されたんです。テロでした。あの時は夫を含めて26人の方が命を落とされました」

 さっきまで崩れかけていた紫倉の表情は落ち着いている。

 そう言われてみれば、そのニュースは日本でも大々的に報じられた。国際テロ組織から犯行声明が出て、政府官房長官が記者会見で痛恨の意を表明した。現地の警察との協力体制により犯人を追い詰めるように全力を尽くすと。その長官は、まさに一井の父、康弘だった。

「まさか、あなたの身にそんなことが起こっていたとは……」

「でも、もう、大丈夫です。立ち直っております」

 一井の胸の奥には複雑な感情が黒い綿菓子のように膨れあがっている。紅茶からは血なまぐさい香りがする。

「ところで、お子さんは?」

 紫倉はカップの中を覗き込みながら答える。

「おりません」

 一井はひとまず胸をなで下ろす。

「ところで、あなたはこれからどうやって生きようとしてるのですか?」

「どうやってって、もう私は年ですし、何か取り柄があるわけでもありません。山口で編み物教室の方たちと話をしながら、静かに生きていくつもりです」

 

 一井は、外にドライブでも出ないかと提案した。

 行きたいところはあるかと尋ねると、意外にも延暦寺という回答が返ってきた。

「どうして延暦寺なの?」

「京都に住んでいた時、マンションから毎日比叡山を見ていたのです。いつかはあそこに登りたいって、ずっと思っていました。それに、ぜひ見てみたいものもあるので」

「それは、仏像か何か?」

「いえ、炎です」


 一井は、長いことつきあいのあるレンタカーの店からメルセデスベンツのセダンを借りた。ホテルの玄関で実車を見た紫倉は身をのけぞらせた。

「こんな車、乗ったことがないです。本当にレンタカーなのですか?」

「そうだよ。遠慮することはない。4輪駆動だから雪道でも難なく走るよ。比叡山に登るのはもってこいだ」

 紫倉はずいぶんとためらった後、ようやく助手席に乗り込んだ。ベンツらしい重厚な音を立ててドアが閉まった後、車内は完全な静寂に包み込まれた。

 ナビゲーションで延暦寺をセットしてから、静かにアクセルを踏んだ。紫倉はベンツの窓からホテルを見上げた。小さい頃、祖父に連れて行ってもらったいろいろな場所の記憶が蘇ってきた。

 祖父と会う人は皆、平身低頭で応対してきた。その時の満たされた心を思い出した。自分はすべてを失ったわけでじゃなかった、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る