33 昔の映画のように完璧に騙して

 12月に入ったというのに東京はまだそんなに寒くならない。こんな年も珍しい。

 一井は専務室の窓から師走の乾いた景色を見下ろしながら、温かいコーヒーをすすった。

 コーヒーの味なら、京都本社は負けていなかった。当時の部下が手間をかけてドリップした味わい深いコーヒーがふと懐かしくなる。

 あの頃は同じビルの中に紫倉がいた

 なんだか、100年前のことのようにも感じられる。


 紫倉の居場所はすぐに見つかった。

「ど、どうしてお分かりになったのですか?」

 紫倉は電話口で怯えるように声を出した。

「今の時代、簡単なことですよ。それより、会って話がしたいんです。僕が山口に行くことだってできる。時間を作ってくれませんか?」

 一井は声を落ち着かせながらも、単刀直入に切り込んだ。

 紫倉は長いこと沈黙を保った。

「実は、私も、お話ししたいことがあるのです」

「え? 本当だね? 今度は逃げたりしないね!」

 思ってもみない返答にまるで一面の花畑の中に飛び込んだような気分になった。

「僕が山口に行きますよ。あなたも忙しいでしょう?」

「いえ、それはさすがに申し訳ございません」

「よし分かった。じゃあ、中間を取って、京都で会うっていうのはどうですか?」

「京都、ですか?」

 紫倉はしばらくしてから、分かりました、と答えた。

 

 その夜、一井は江里のマンションへ行き、彼女を思う存分抱いた。「ねえ、晴明さん、何かあったの? いつもと違うわよ」

 江里は自分の上にいる一井に尋ねた。

「そうかな? いつもと変わらないと思うけど」

 江里は、犬が匂いを嗅ぐように顔を近づけてきた。

「いいえ、やっぱりいつもと違う。だって、こんなに積極的じゃないもの。ひょっとして、仕事が前に進んだとか?」

「仕事は相変わらずだよ。長江技術はあれから動きを見せない」

「じゃあ、何かいいことでもあったとか?」

「べつにないよ」

 彼女の身体はいつもより増してぬくもりに満ちている。テレビの中にいる時よりも百倍素敵だ。

「ねえ、晴明さん」

 江里は一井に抱きついたまま言う。

「私を離さないで欲しいの。すごく不安なの」

「大丈夫だよ。離しやしないよ」

「私を騙してないわよね?」

「君が何を心配しているのか、分からない」

 一井が自分を騙すほど若くはないことを江里は知っている。だからこそ、その言葉に安心して、涙がこぼれた。

「でも、私、時々すごく不安になるのよ。晴明さんがどこか私の知らないところに行ってしまうんじゃないかって」

「どこにも行きやしないよ。だから、今日はもう寝よう」

 間もなくして江里は一井の腕の中で寝息を立てた。

 それを確かめた後、一井は紫倉と2人で会える幸福を頭いっぱいに浮かべた。

 

 フェイクの寝息を立てながら、江里は薄目を開けて、一井の横顔を間近でたしかめた。やっぱりこの人は自分以外の誰かのことを考えている。

 その時、三鷹の隠れ家で野田英二に抱かれた記憶が蘇った。

「俺は、将来的に江里と一緒に暮らしたいんだよ。そのうち何かが変わって、俺たちを結びつけてくれるようになるよ。口に出したことは自ずと叶えられるものなんだ」

 十分に若かった自分はその言葉をまるごと信じて彼をことごとく愛し、その時を馬鹿みたいに待ち続けた。

 もはやあの頃のように、夢を見るように恋をすることはできない。

 もし一井にフラれたら、それは自分への報いだ。すべてを捨ててアメリカに渡ってしまおう。

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