36 理由

 ハイアットリージェンシー京都のスイートルームの明かりを落とし、肩を並べてベッドに腰を下ろしてすぐ、紫倉は一井に背を向けた。

「そんなに嫌がらなくてもいい」

 一井はサイドテーブルの上に置いたシャンパンに手を伸ばした。

 あれほどまでに胸を焦がした紫倉がすぐ目の前にいるのに、意外なまでに心は落ち着いている。だのに、紫倉ときたら顔を青白くして、激しく息を吐いている。

「どうしたの? 何も心配することはないんだ」

「いえ、大丈夫です。ちょっと眩暈がしただけですから」

「疲れたのかい?」

「延暦寺に行ってから、息が苦しいのです。炎を見ていると、いろんな声が聞こえてきて……」

「実は、僕もなんだ」

 一井はシャンパンを口に付けた。

「私は何て悪い人間なんだろうと、絶望的な気持ちになっています」

 紫倉は白いガウンをきつく身体に巻き付ける。

 一井はそんな彼女の両肩を掴んでこちらに向け、彼女のあごに手をやって、唇に口を付ける。

「ちょっと、待ってください」

「どうした?」

「胸が苦しいのです」

「どれどれ」

 一井はガウンの上から紫倉の乳房に手をやった。

 紫倉は一井の腕を振りほどこうとしたが、そのうち力を抜いて、人形のようになった。それでも、息は荒い。霊が取り憑いた女性のようにも見える。

「ずっとあなたのことを思っていた」

 自分の存在で彼女の心を満たしてやろうと思う。

「あなたは悪人なんかじゃない。いつまで経っても、無邪気な女性だよ」


 わずかに開いたカーテンの隙間からは、幽玄にライトアップされた京都国立博物館の明かりが漏れている。

 ガウンを完全に脱がし、薄暗い部屋に浮かび上がった紫倉の身体を、謎解きでもするかのように、時間をかけて眺める。

 青白い肌にやわらかな乳房、そして小さな乳首。江里よりもひとまわりほっそりした身体は、5年経った今、美しく年季を重ねている。

 あの夜、琵琶湖畔の別荘の一室で、紫倉は必死に抵抗してきた。自分はレイプをしているような罪悪感さえ覚えた。

 でも今日は違う。

 そのやわらかな乳房に顔を埋めながら、肩まで掛かった髪に手をやった時、紫倉は感電したかのような大きな声を上げた。その声は一井の欲望に炎を注いだ。


「これまでのことを教えて欲しいんだ」

 薄紅色の着物のような遮光カーテンを開けた時、京都国立博物館の明かりは消えていた。その上空には、日本刀のように鋭利な三日月が見える。

 布団に身を埋めた紫倉は、月に目を細めた。

「これまで、ですか?」

「そうだ。どうしてあんなにつれない態度を取ったのか」

 紫倉の力ない表情が月明かりにうっすらと照らされる。

「それは、ご想像ください」

「想像できないから聞いてるんだよ」

「そうでしょう。決して想像できないはずです」

 一井は、彼女の艶やかな肩を撫でた後、乳房へと手を滑らせた。

 紫倉は、それ以上口を開こうとはしない。

「じゃあ、プノンペンは、どうだった?」

 一井は質問を変更した。

「私には、合わなかったです」

「合わなかった?」

「無法地帯でした。騙されたこともありましたし、強盗にも遭いました。どうして私はこんなところに来たんだろう、できることなら日本に帰りたいって、ずっと思っておりました。そこへもってきてのあの事件です」

 一井は身体ごと紫倉の方を向いた。

「そのまま日本にいれば良かったんだ。少なくとも僕はそうしてほしかった。だから、君が旅立ってしまう前に、会社で呼び出したんだ」

「そんなこともありましたね」

「死ぬほど苦しかったよ」

 紫倉はふっと表情を崩し、「また、お上手を」と言った。

「上手じゃない、本心だよ」

「あの時ばかりは、どうしても京都を出なければいけないと思っていたのです。私も、すごく苦しかったのです」

「じゃあ、今はどうなんだい?」

 一井は間髪入れずに聞いた。

「今は、どうなんでしょう? 苦しいことには違いありません」

「どうして苦しいんだい?」

 紫倉は、何も答えない。それからしばらくして言った。

「私は、これまでに3度、死んだ人間なのです」

「3度?」

「1度目は、私が幼い頃、実家が崩壊した時に死にました。2度目は、プノンペンで、夫が他界した後で死にました。3度目は、最近死にました」

「最近? 何があったんだい?」

「それは、言えません。きわめて個人的なことです」

「あなたは死んでなんかいない」

 紫倉は微細な笑みを浮かべる。

「私は、これから、ごく限られた気の合う人たちとの交流をしながら、社会の片隅で、死んだまま生きるのです」

「どうしてそんなことを言うのか、僕には良く理解できないね」

「そうです。そもそも、一井部長みたいな方に理解していただけるはずがないのです」

「でも、僕は理解したいと思っているよ」

「いいえ、それはご無理です。私たちの間には、高くて分厚い壁が存在しておりますから。私はとんでもない悪人なのです」

「それなら」

 一井はそう言い、唾を1つ飲み込んだ。

「どうしてあなたは京都に来てくれたんだい?」

 紫倉はピタリと息を止め、天井に目を向けた。

「一井部長が、5年経ってもなお、私のことを覚えてくださり、その上、身に余るお言葉までかけていただいたことが本当にうれしかったからです」

 紫倉の頬には涙が転がり、立て続けに流れ落ちて、ベッドに消えていった。

「なら、これからもちょくちょく、京都で会えばいいじゃないか。いくらでもセッティングしてあげるから」

 紫倉はしばらく天井を見上げたまま泣いた。途中、息継ぎと同時に涙をすする音が、部屋に響いた。

「これから、あなたも、そして僕も、どうなるか分からない。でも、僕はこれからもあなたと会いたいと思う。人生の中であなたとつながりながら生きていきたいんだよ」

「そんなことが、本当にできるのでしょうか?」

「できるに決まっている」

「でも、一井部長には奥様がいらっしゃるのでは?」

「僕はまだ結婚していない」

「でも、素敵な方はいらっしゃるはずです。私などが及びもつかないような方が、一井部長にはついていらっしゃるに違いありません」

「あなたに及びもつかないだなんて、僕はそんなたいそうな人間なんかじゃないよ」

 一井はお茶を濁すように答える。

「輝かしい一井部長の人生に私のような邪悪な人間が入り込むとは、滑稽きわまりないことです。一井部長にとってはきずにしかならないでしょう」

「僕はあなたのことを想っているんだ。まだ分かってもらえないんだね」

「そのお言葉、いったい何人の女性に言われてきたのでしょうか?」

 一井の腹筋に急ブレーキがかかる。

「おっしゃるとおり、僕もこれまで恋をしなかったわけじゃない。僕の年齢にもなると、それ相応の恋に落ちるのは必然だと思ってもらいたい。でもね、あなたのことを想うようになってから、人生のリズムが変わったのはたしかなんだ」

 紫倉は少しだけ一井の方に顔を傾けた。

「あなたへの想いは、これまで僕が経験してきたどの恋とも違うんだ。それがなぜだか、その理由が分からない。ただ苦しくて、どこまでも持続するんだよ」

 紫倉は暗闇の中、一井に見えないように、悪魔のような笑みを浮かべた。

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