26 偶然か?必然か?

 明くる日、目が覚めたとき、天地がひっくり返ったような錯覚にとらわれた。アルコールが頭の中をふらついていたのだ。

 眩暈が収まった後で、ああ、会長は本当に亡くなったのだという想念が浮かんで消えた。後に残ったのは、恐ろしいほどの孤独感だった。


 東京に帰る前に、林田に車を出してもらって、京都市内をふらりと巡ることにした。過去に会長と訪れた場所をこの目で確かめておきたくなったのだ。

 最初に伏見稲荷に参詣し、ダイニチの今後の発展を祈った後、会長の行きつけだった料亭でてんぷらを食べた。そういえば、会長の隣に紫倉が同席したこともあった。

 想い出の詰まった上品な天ぷらをほおばり、煎茶を飲んでいるうちに、琵琶湖畔の別荘でのパーティーがリアルに思い起こされた。

「あの頃はほんとうに楽しかったな」

 一井がしみじみと述懐すると、林田も同意してきた。じゃあ、せっかくですから、琵琶湖まで足を伸ばしてみましょうか、と林田は提案してきた。一井にとって、悪くないアイデアだった。

 名神高速に乗り、快調に流れていく窓外の景色を何気なしに眺めていると、紫倉のことが思い出された。


 彼女は今頃何をしているだろう?

 プノンペンでの生活にもすっかり慣れたはずだ。


 昨日、京都に入ってからというもの、たしかに紫倉の面影がまとわりついている。夏越が「小宇宙」で指摘した恋バナは、酒の席での戯言たわごとではない。

 あれから5年も経っているのに、京都へ来ると、紫倉の存在がすぐ近くに感じられる。あんなにも心惹かれる女性は、やっぱりこれまで出会ったことはない……


「瀬田東インターチェンジ」の標示が見えたとき、いつだったか、石山寺で紫倉とばったり出会った記憶が鮮やかに甦ってきた。陽の当たる境内を2人でとりとめもなく歩いた情景が、少しずつ、頭の中で彩りを与えられていく。

「悪いけど、琵琶湖に行く前に、石山寺に寄ってくれないだろうか」

「石山寺、ですか?」

「そうだ。せっかくここまで来たんだから、どうせならお参りしておきたくてね」

「かしこまりました。でも、石山寺に何かあるんですか? 商売繁盛とか」

「いやいや、あそこは寺院だから稲荷神社みたいに現世利益げんせりやくが期待できるわけでもないよ。ただ、ちょっとした想い出が残ってるんだ。以前、会長の別荘に行く途中に、ふと立ち寄ったことがあってね」


 駐車場に車を停めた後、一井は外へ出て、大きく背伸びをした。その隣で林田は陽の当たる山門をまぶしそうに見上げた。

「へえ、由緒ある寺のようですね。名前だけは聞いたことありましたが、こうして実際に来たことはなかったです。一井部長が誘ってくださらなければ、一生来なかっただろうなあ……」

 大型バスが何台も並んで止まっていて、ツアーの参詣者でごった返している。ジャケットを着た2人は、人々に混じって山門をくぐった。


 記憶の森の中に足を踏み入れている感覚が、一井を興奮させた。

 あの日は休日だったにもかかわらず、参詣者の姿は他に見当たらなかった。閑散とした参道をとりとめもなく歩いたところに紫倉の美しい後ろ姿があったのだ。

 今思えば、いかにもリアリティのない風景だ。そもそもこんな名刹に参詣者がいないということがあるだろうか? 

 二日酔いの鈍い眩暈を感じながら歩いていると、あっという間に本堂の前にたどり着いた。一井の隣で、林田はスマートフォンを取り出し、熱心に画像を撮っている。誰かに送付するつもりかもしれない。


 あの日紫倉と出会った場所に立った瞬間、一井は苦しいほどの胸騒ぎがするのを感じた。二日酔いのせいではない。目の前には紫倉が立っているのだ。

 もちろん、そんなことなどあり得ない。

 ことごとく白昼夢を見ているものだと呆れた。

 だが、田中紫倉が一井の顔を正面から凝視し、隣で林田が大声を上げてスマホを地面に落としたとき、完全に夢から醒めた。

「田中……え? ひょっとして、た、田中さんじゃないですか!」

 紫倉は、5年前と何も変わらない紫倉は、目を最大限に見開き、口に両手を当てた。

「おいおいおいおい、嘘だろう? どうしてここにいるの?」

 林田が腹の底から叫ぶものだから、周りの参詣者たちの注目を一斉に浴びた。

 紫倉は顔を震わせながら後ずさりしている。まるで幽霊と出会ったかのような恐怖に満ちた動作だ。

 一井は心の中で大きな花火が立て続けに暴発するのを抑えながら、紫倉の前に立ち、ひさしぶりだね、とだけ言った。

 彼女はひどく戸惑って、林田と一井を交互に見ながら、お久しぶりです、と声を振絞り出した。

「もしよろしければ、お茶でも飲みませんか。実は、3日前に会長が逝去されたんです」

 林田が落ち着いて言うと、紫倉は小さく返した。

「存じ上げております」

「それなら、想い出の詰まった琵琶湖でも眺めながら、3人で会長をしのぶ会を開きましょうよ」

 紫倉は目を閉じて左右に首を振る。

「せっかくですけど、今日は、用事があるんです。今から、もう、帰らなければなりません」

 その声は極度に震えているものの、相変わらず、品がある。一井の心は瞬く間に5年前の自分と完全に同一化した。

「今、どこにいるの? もう、プノンペンから帰ってきたの?」

 一井は尋ねた。

「今は、山口に住んでおります」

「や、山口?」

 2人のやりとりを、林田は一歩下がった所で聞いている。

「ちょっとした事情がありまして。5年前に、京都にいた時とは、全く違う生活を送っております」

 紫倉は何度も唾を飲み込みながら、一滴ずつ言葉を落とす。

「仕事は?」

 一井は異常なまでに口の中が渇いているのを自覚する。紫倉は、過去にしていたように一井の胸元あたりに視線を送って、静かに答える。

「特に、しておりません。週に2回、地元で編み物教室をしているくらいです」

「ごめん、あなたの状況がまったく分からないんだ。あれからいったい、何があったんだろう?」

 紫倉は再び瞳を閉じて、もう1度、首を左右に振った。それ以上、答えるのをやめて、シルバーの腕時計に視線を落とした。

、どこかで会いたいんだ。それに、あなたに返さなければならないものもあるんだ」

 一井は林田がいることを一瞬忘れた。

の忘れ物だよ。ずっとうちにしまったままなんだ」

「いえ!」

 紫倉は真顔に戻って、一井の話を強引に遮った。

 それからすぐに表情を戻し、丁重に頭を下げた。一井の胸には、甘酸っぱく、どこか恥ずかしい思いが炭酸水のように駆け上がってくる。自分にもまだこんな心が残っていたのかと、戸惑う。

 紫倉は最後に、一井と、それから後ろに立っている林田に一瞥した後、祈祷するかのように深々と頭を下げて、足早に境内を後にした。

「ちょ、ちょっと待ってくれ、せめて連絡先でも……」

 一井は手を挙げて引き留めにかかったが、彼女は参詣者の間を縫うようにして姿を消した。白いカーディガンだけを残して消えていったあの日の姿がオーバーラップされて、呼吸が止まった。


 林田は青ざめた顔をして突っ立っている。

「びっくりしたな、まさかこんな所で会うなんてな。会長が引き寄せたんだろうか?」

 すると林田ははっと正気に戻って、「そ、そうですね」と言った。「偶然というものは、恐ろしいです」

 心があまりにぐちゃぐちゃになっていたので、林田の狼狽に気づくことすらできなかった。

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