27 紫式部の微笑み

 夕方、一井はそのまま新幹線に乗ることがどうしてもできずに、夏越の博物館に立ち寄った。


 夏越は閉館後の薄暗い受付カウンターに座って一井を待っていた。その光景はまさにお化け屋敷そのものだった。

「ほうらね、言ったとおりでしょー。晴明ちゃんはまた、恋の京都ワールドにはまっちゃったのよ。『源氏物語』のストーリー通りになってるでしょうが」

 夏越は開口一番、鬼の首を取ったかのように言った。

「分かったよ。俺の負けだよ。とにかく話だけでも聞いてほしいんだ。でないと、身が持たない」


 2人は館内深部にある夏越の部屋へと移動した。白熱灯の電球を付けた瞬間、部屋の中にくすんだオレンジの光が不気味に染み渡った。

「なつかしいでしょ、ここの部屋。それにしても、あの頃は楽しかったわねえ。でもね、前に晴明ちゃんが来てくれたときから、たぶん、何も変わってないと思うわよ。しいて言うならね、本とゴミが多少増えたことくらいかしら。は、ちゃんと保管しとかないとねぇ」

 ここへ来ると、夏越は決まって饒舌になる。

「まさかこんな展開が待っていたとは思ってもみなかったよ。今回の彼女との再会は、ただの偶然だろうか?」

 一井が切り出すと、夏越は両手で髪を掻き上げてから、細い足を組んだ。それから、カッターシャツのボタンを2つ外して襟元を開放した。洗濯板のように薄っぺらい胸板が露わになる。

「だから言ったじゃないのよ。光源氏と空蝉も『逢坂おうさかせき』で再会したって。偶然なんかじゃないわよぉ。あなたが京都に来た時点でこうなることが決まっていたの。運命よ」

「ウソみたいだ。忘れかけていた思いに火がついてしまった。彼女は今でも十分に美しく、魅力的だった。俺はいったいどうすればいいんだろう?」

「そんなの知らないわよ。晴明ちゃんはどうしたいって言うのよ?」

「彼女に会いたい、どうしても会いたい」

「じゃあ会えば良いじゃない」

「連絡先が分からないんだ」

「山口にいるっていうのが分かってるのなら、それで十分な情報じゃない。権力を使っちゃえばいいのよ。晴明ちゃんの命令とあらば、警察でも自衛隊でも特殊部隊でも、バレないように調べてくれるに決まってるわ」

「そんなことはできない」

「じゃあ、自力で何とかするしかないわね」

「わかったよ。彼女を見つけ出すことについてはこっちでやるとして、問題はその後だ。5年前にできなかった、彼女と2人の場を設定したいんだ」

 夏越は崩れたモナリザのような笑みを浮かべて言った。

「すごく楽しそうね。うらやましいわ」

「どうした、何かアドバイスをくれないのか?」

「アドバイスも何も、もう結論が出ちゃってるじゃない」

 夏越はゆっくりと立ち上がり、サイドテーブルをひょいとまたいで一井の隣に腰掛けた。

「その女を手に入れたかったら、ちょくちょく京都に来れば良いだけの話よ。そうすれば、勝手に恋の物語が進んでいく。晴明ちゃんは、余計なことを考えずに、物語に乗っかっちゃえば良いのよ」

「具体的じゃないな」

「十分具体的だと思うけど」


 夏越は座ったまま背伸びをした後、少し咳き込む。その乾いた音が、部屋の空気をいたずらのように揺らす。

「ボクも晴明ちゃんのおかげで、『源氏物語』をじっくり読み込む機会が与えられたわ。やっぱり、紫式部って、天才だなって、つくづく思っちゃう。彼女はいったい、あの作品で何を書きたかったんだろうって素朴な疑問を考えてたのよ、この5年間。いろんな文献に当たったりしたんだけどね、研究者によって解釈がまちまちでね、やっぱり真実は藪の中なのよ。ようするに、『作品のテーマは読者にゆだねられる』っていう一般論が正しいと、ボクも思う」

 夏越はそう言い、一井にすり寄ってきた。この男特有の匂いが鼻先にまとわりついてくる。

「でね、紫式部が書きたかったのは、召人めしうどの心じゃないかって、ボクは思うの」

「召人?」

 夏越は前を向いたまま、首をカクリとさせて頷いた。

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