25 無名の雄弁

「話は少し変わるんだけどさ」

 一井はそう切り出して、新しいハイボールを口に入れた。

「やっぱり世の中はカネがすべてなんだろうか?」

 夏越は微動だにせず、2杯目の日本酒スパークリングを飲み干し、さらに同じものをオーダーした。

「またさっきの話ね。せっかく楽しい話題で盛り上がってたのに、戻さないでちょうだいよ。ボクには全く分からないって言ったはずだけど」

「さっきよりも簡単な命題じゃないか。カネは人の心よりも大事かどうかって聞いてるんだから」

「そんなの知らないわよ。考えたことがない。ボクはカネにはほとんど興味がないのよ」

 夏越はそう言い、親指で鼻の穴を押さえた。

「つまり、カネより人の心の方が大事だっていうことか?」

「そもそも、晴明ちゃんが『人の心』と『カネ』を天秤にかけるところから、ボクにはよく理解できないのよ。その両者が対立概念であるという前提が、すでにボクの中にはありえないの」

「そういう哲学の話じゃない。あくまでこれはビジネスの世界の話だ」

「だからさ」

 夏越はいかにも退屈そうに言ってきた。

「ビジネスの世界に、ボクは全く興味がないの。だいいち、ビジネスなんて、世界を構成するほんの一部の断片にしか過ぎないんだから。やりたい人たちが勝手にやってればいいだけの話でしょ」

 なるほど、そういう見方もあるのか、と一井は純粋に驚いた。多くの一流企業に見向きもせぬまま、迷わずあの怪しい博物館に就職しただけのことはある。

「カネに興味を持たずにそうやって生きていくお前は、やっぱりすごいな」

 一井はナポリタンを食べ、ハイボールを飲んだ。この店が閉店してしまう名残惜しさに包み込まれながら。

「いいえ、すごいのは晴明ちゃんの方でしょ。100万人の日本人にアンケート調査してごらんよ。99万9995人が迷わずそう回答するはずよ。ボクなんかは世の中の流れというものから完全に取り残されたところで生息してるんだから」

「逆に言えば、お前は100万人の中の5人に入ってるんだ。それはそれですごいことだ」

「どうもありがとう」

 息を吐き出しながら夏越はふっと笑った。

「晴明ちゃんも知っての通り、ボクはおよそ世の中というものにマッチしないの。でもね、そういう人間がいてもいいと思ってる。だって、誰にも迷惑をかけずに生きてるんだから。税金だって、ちゃんと払ってるわよ。自分の生き方が間違っているなんて微塵も思っていないわ。もちろん、正しいとも思ってないけどね。この世には『有名』と『無名』との間にとてつもなく大きな格差が存在してるの。そして、大多数の人たちが『有名』になるために必死にあがいてる。でもね、ボクのパーソナリティはまったく逆の道を求めるのよ。『無名』であることの方が自分らしいし、格好良いの。そもそも、本当に自分の人生を最後まで貫こうとするのなら、絶対に『無名』でなきゃいけないとボクは確信してる。だから最期までそういう生き方を完全にやりきるつもりよ」

 一井は返す言葉が見つからない。御手洗の演説とはまた違う説得力だ。

「あ、でも気分を悪くしないでね。晴明ちゃんは『有名』な世界で大いに活躍してほしいって思ってるんだから。そういう人が頑張ってくれないと、経済は成り立たないしねぇ。どっちが正しいっていうことじゃないのよ。自分がどっちを選ぶかっていう価値観の問題なの、ボクが言いたいのは」

 夏越は3杯目の日本酒スパークリングを気持ちよく飲み干し、迷わず4杯目をオーダーした。

「大丈夫だ、お前の言いたいことはちゃんと伝わってるよ」

「ひょっとして、今ふと思ったんだけどさぁ、晴明ちゃんみたいな超有名人とだからこそ、ボクは堂々と自分の道を生きることができるのかもしれないわねぇ」

 夏越はそう言って、軽く頭を下げた。長い髪が顔の前に出てきた。

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