24 架空(?)の物語、再び

「どうなのよ? どうせ今も、恋にはまってるんでしょ?」

「そんな暇はない」

「へえ、じゃあ、5年前に晴明ちゃんの胸を焦がしまくったあの女のことはすっかり忘れちゃったっていうのね?」

「忘れたわけじゃないよ。でも、逃げられてしまったんだ。もはや俺にはどうすることもできないよ」

 あの時抜け殻のように手に残った紫倉の白いカーディガンは、自宅のウォークインクローゼットの奥に、紙袋に入れてしまってある。

「まったく連絡は取ってないの?」

「プノンペンに行くのと同時に、彼女の電話は解約されてしまった。それ以来、ぷっつりだ」

「じゃあ、晴明ちゃんが東京に行ってからというもの、恋の物語もそのまま放置された状態になってるってことね」

「まあ、そういうことだね」

 夏越は不気味な瞳を至近距離から向けてきた。一井は思わず身をのけぞらせた。

「晴明ちゃんが今吐き出した遠い世界での話には、根底でその女が絡んでいるのよ。話の内容は全く理解できなかったけど、その女の影だけは感じることが出来たもの」

「また。いったい、何を言い出すんだい」

 夏越は頬だけを引き上げて、笑みのような表情を作った。

「晴明ちゃんが東京でつまらない日々を送っているのは、仕事のせいじゃなくって、その女のせいなのよ。仮にその女が同じ職場にいたら、きっと今とは違って、エキサイティングな毎日を送っているはず」

 ヒヤッとした刺激が一井の背筋を駆け抜ける。非常に鋭利なメスで背中を傷つけられたようだった。痛みは感じないが、血は出る、みたいな。

「今お前が言ったことが正しくないことを祈るよ」

「残念だけど、正しいわよ。晴明ちゃんは心の奥でその女のことをずるずると引きずってるのよ。今日このお店に来たのも、その話を吐き出すためなのよ」

「どうなんだろうね?」

 頭の中は、アルコールの影響と相まって、混乱し始めている。

 夏越の指摘は正しいような気もする。あるいは、この男にマインドコントロールされているような気もしている。

「晴明ちゃんは京都に来てくれた。そうして今、この場所で『雨夜の品定め』が再開された。これはただの偶然なんかじゃないわ。きっとが起こる前触れなのよ」

「今日は雨なんて降ってないよ」

「いや、降ってるわよ。耳を澄ましてごらん」

 その瞬間、天井の上から雨音が聞こえ始めた。

「嘘みたいだ」

「嘘じゃないわよ」

「お前はいったい、何者なんだ?」

「べつに、普通の人間よ。でもね、晴明ちゃんと同じように、ちょっとだけ第6感が鋭いの。あなたの第6感があの女を求めているってことを、ボクの第6感が察知してるのよ」

 一井の頭の中はぐるぐると回り始めた。それで、ウイスキーのハイボールに入れられたカットレモンを取り出して、口に含んだ。


「ところでさ、1つ聞いてもいいかい?」

「どうぞ」

「ほら、お前が5年前に言ってただろう。田中紫倉は『源氏物語』に出てくる空蝉と同じだって」

「あら、覚えててくれたんだ。うれしい~」

 夏越はグラスをカウンターに置き、両手を合わせてそう言った。

「空蝉って、最後はどうなるんだ?」

「いったん光源氏から離れるけど、数年後に偶然の再会を果たすの」

「もうちょっと詳しく教えてほしいんだ」

 夏越は得意げに背筋を伸ばして、慎重に話し始める。

「空蝉はね、国司として派遣された夫に同行して、常陸国ひたちのくにに行ったのよ。でね、何年か経って、任期を終えた帰りに、『逢坂おうさかせき』でばったり光源氏の行列と再会するの。空蝉は、久々に光源氏の姿を目の当たりにして、忘れていた思いに、ぼぉーっと火がついちゃうの」

「それから?」

「やがて夫に先立たれるわね。で、未亡人になったのを良いことに、夫の前妻の息子に求愛されたりして、心がめちゃくちゃになって、出家してしまう」

「出家? それは田中紫倉にはありえないよ」

 胸をなで下ろしながら言う。

「最後まで話を聞いてちょうだいよ。空蝉はね、出家した後で、光源氏に引き取られて、最後は光源氏の別邸で庇護ひごされることになるのよ。『中の品』としての矜恃はどこへ行ったんだと、空蝉の後半生に異論を唱える研究者も多くいるけど、ボクはそれが彼女たちが抱える哀しい現実なんだと思ってるの。1人で生きていくか、それとも恥を忍んで誰かに助けを請うか……。空蝉に限っては、後者を選んだわけ」

「なるほどね。いくらプライドがあったとしても、最後には現実路線を取ったというわけだ」

 一井はそう言いながら、『源氏物語』はしょせん架空の話に過ぎないのだと言い聞かせた。俺は俺自身の力で現実を切り拓いていくのだと。


 夏越は指先で丸めた鼻くそを床に落とした後、こう言った。

「近いうちに、晴明ちゃんもその女と再会するわよ。そこから、恋の物語の第2章が始まるんでしょうね」

「ありえない」

 一井は即答した。彼女は今頃プノンペンにいるのだ。

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