18 恋に王道なし
紫倉が夫の転勤に伴ってプノンペンに引っ越すことになったという知らせを耳にしたのは、8月最初の月曜日の朝だった。
「秘書室で話題になっていたんですよ。田中さんには、いろいろとお世話になったし、いつも丁寧に対応してもらったんで、正直びっくりなんですけどね」
その時一井は林田が運転するアルファードの後部座席に座っていた。
「そ、それは、いつの予定なんだ?」
石灰岩のように堅くなった心の隙間から、絞り出すように聞く。
「9月の初めらしいですよ」
頭の中で必死にカレンダーをめくる。石灰岩が至る所で爆発して粉々になる。
急におし黙った上司の様子をルームミラーで確認した林田は、思わずぞっとした。そこにいるのは一井のデスマスクに見えたのだ。
2人は何も会話を交わさぬまま、大阪へと向かった。
「俺は、いったい、どうすればいいんだろう?」
休み時間、梅田の会議場から夏越に電話をかけた。月曜日は、博物館は休館日だ。
「どうすればって、それは晴明ちゃんが決めることでしょうが」
夏越は博物館の奥の部屋のソファに寝そべり、源氏物語の原文のページを開いたままそう答えた。
「どうしようもないから電話してるんだ。このまま諦めることなんて絶対にできない」
「そんなこと言われたって、ねえ……。 だったら、その女を強引に連れ戻せばいいんじゃない? 陰の手でも使ってみる?」
「そんなものはない」
「政治力を使っちゃえばいいじゃない。権力の恐ろしさというものを思い知らせてやるのよ」
夏越は愉快そうだ。
「俺がほしいのは彼女の心なんだ。強引に奪い取ったって、あんまり意味はない」
「じゃあ、選択肢は2つに限られてくるわね。
「それとも?」
「最後にもう1度、その女と会うか。どんなに固辞しようが、とにかく会って、晴明ちゃんの本気の恋心を直接その女にぶつけるのよ。そうすればその女の心はグラグラ揺れるわ。そうやって、海外赴任を思いとどまらせる」
「彼女だけ京都に残ってもらうというわけか」
「そういうことね。それがうまくいけば夫という邪魔者がいなくなるわけだから、晴明ちゃんにとってかえって好都合になるじゃない」
一井は額の脂汗を手で拭き取る。体内に遍満する重苦しい沈黙が少しずつほぐれていく。
「どう? 少しはお役に立てたかしら?」
「ありがとう。お前のアイデアはいつも参考になるよ」
夏越は鼻で笑う。
「晴明ちゃんに褒めてもらえるのは光栄ね。成功することを祈ってるわ」
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