17 久しぶりの恍惚

「この建物、大正時代に建てられたものだから、今の時期はじめじめして最悪なのよ。晴明ちゃんも、ずいぶんと汗かいちゃったでしょ?」

 夏越はやおら立ち上がり、サイドテーブルをまたいで、一井の隣に腰を下ろした。まるで痩せた人間の形をした影のように見えた。影のくせに重量感をもってソファを揺らしたかと思うと、今度はトカゲのような早さで一井の膝にすり寄ってきた。

「暑いな」

「あら、ごめんなさいね」

 夏越は扇風機のダイヤルをひねり、風量を大きくした。扇風機は、まるで最後の一仕事でもするかのように、持てる力を最大限に出し切ろうと精を出した。

 夏越は一井の膝に手を置いた。

「やめろよ、そんなつもりはない」

 

 夕闇の紺色は、部屋の隅々にまで染みこんでいる。そういえば、愛用しているモンブランのインクに「ミッドナイトブルー」という色があったのを、このタイミングでふと思い出す。あのインクのように、部屋の中の紺色は、深くて濃い。

「ボクが空蝉の話の中で一番好きなのはね、じつは光源氏と小君こぎみが添い寝をするシーンなの」 

 夏越はだしぬけにそう言ってきた。

「小君?」

「そう、年の離れた空蝉の弟。あの子は、光源氏から恋の手引きを頼まれて、仲介しようとするけど、空蝉は応じようとしない。だから、恋する2人の間で板挟みになっちゃうの。かわいそうに」

 夏越が話すたびに、肩まで伸びた髪の毛が一井に近づき、汗のにおいが鼻先に漂ってくる。

「平安時代にはね、身分が高くない少年は、貴族男性からもてあそばれることがしばしばあったのよ」

「もてあそばれた?」

「使い走りにされたり、雑用を押しつけられたりしたの。今の人権感覚ならそれはタブーだけど、当時は全然ありだったわけ。でね、時には、恋人の代わりをさせられたりもしたの」 

「少年にかい?」

「そうよ。ほら、まだ声変わりもしてないし、髪もきちっと結っていないわけだから、少女の雰囲気を持ってたのよ」

「で、光源氏は、空蝉の弟にをさせたわけか?」

 スローモーションのようにうなずいた夏越の髪が一井に触れた。

「光源氏が、どうしてももう1回空蝉と一緒に寝たくなってきたから、小君に命令して手紙を渡したりさせるの。でも、ことごとく無視される。で、空蝉からの和歌が返ってきた直後に、光源氏は『おまえだけは、俺を見捨てないでおくれよ』と言って、小君を引き留めて、添い寝するの」

「それで?」

「残念ながら、源氏物語には、実際の濡れ場は書かれていない。その代わりに、そこに至るまでの盛り上がりと、終わった後の情景は細かく描写されてる。そこが、逆に想像力を駆り立てられて、興奮しちゃうんだけどね」

 夏越は一井の膝に置いた手にきゅっと力を入れ、そこを支点に反動をつけるかのようにして立ち上がり、壁際に移動して、本棚を覗き込んだ。

 暗い室内の中で、夏越はあっさりとその本を探し出した。そうして、再び一井の隣に腰を下ろし、ほんのわずかな光がこぼれる窓の方に向けてページをめくった。

「ほら、ここに書いてある」

 夏越が取り出したのは『源氏物語』の原文だった。


 若くなつかしき御ありさまを、うれしくめでたしと思ひたれば、つれなき人よりは、なかなかあはれに思さるとぞ


「どういう意味なんだい?」

「小君は、光源氏の若々しくて求心力のある姿を間近で見れてうれしく思い、本当にすてきだと心がわくわくしてきた。光源氏の方も、つれない空蝉よりは自分を思ってくれているこの少年の方がよっぽどかわいらしく思えてきた。2人とも、気分が盛り上がってゾクゾクしてきたのね。今で言う、ボーイズ・ラブだね」

 夏越は一井の膝を撫でながら解説をする。

「場面はそこで終わり。その後、添い寝した2人がどうなったのかは、読者の想像におまかせ」

 夏越は背中をすっと伸ばして一井の首筋をめた。

「だからやめろって」

 目を閉じて身を反らしたが、夏越の髪はつい目の前にまで迫っている。目を開けると、あの夜の紫倉の髪の毛がすぐそばにある。

 紫倉は拒みながらも自分の要求に応じてくれた。唇が合わさった瞬間、まるで頸椎を射止められた獲物のように、彼女の抵抗はぴたりと止んだ。それを皮切りにして、転がり落ちるかのごとく時が進んだ……


 夏越は、一井のシャツのボタンを完全に外し、インナーも脱がした後で、汗ばんだ胸元に口をつけ、息を吹きかけるようにささやいた。

「久しぶりね」

 夏越は顔をぐっと近づける。

「晴明ちゃんを見ながら、ずっとゾクゾクしてたんだからね。もう限界よ」

「まったく、おまえにはかなわないよ」

 一井は胸元に張り付いた夏越に向かってそう言い、髪を撫でて、そっと抱きしめた……

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