16 近づくと消えてしまう木

「ところでさぁ、この恋における、晴明ちゃんのビジョンは何なの?」

 夏越は新しいお茶を差し出した後、そう聞いてきた。

「ビジョン、ときたか。まるで仕事みたいだ」

「あなたの口癖でしょ」

 夏越はソファに座ったまま膝の上で頬杖をついた。

「今は、正直言うと、彼女と一緒に暮らしたいとまで思うようになっている。でも、それはあくまで遠い願望であって、とりあえずは、前と同じように気軽に話ができる関係に戻ることができれば、それでいいんだ」

「気軽に話しかけて、契りたいときにいつでも契れる関係に戻りたい、と。じつに自分勝手なビジョンね。他人の事情なんてなぁんにも考えていないんだから。仕事の話をする晴明ちゃんとはまるで正反対ね」

 夏越は冷淡に言う。

「でもそれって、かなりハードル高いわね。百メートルくらいの高さのハードルをどうにかして跳ぼうとしてるのよ」

「それは俺だって分かってるよ、だからこんな精神的袋小路に迷い込んでるんだ」

 扇風機はカラカラカラと音を立てて回っている。


「光源氏は、空蝉に向けて苦し紛れの和歌を詠んでるのよ。あなたはまるで帚木ははきぎみたいだって」

「帚木?」

「遠くからは見えるけど、近寄ると消えてしまうっていう伝説の木のことよ。近づくとつれない態度をする空蝉と同じようなものだって」

 夏越の説明は何の慰めにもならない。

「でね、空蝉も和歌を返したのよ。あなたの数にも入らない貧しい場所にいるのがつらくて、そこにいることさえできずに、消えてしまう帚木、それが私なのですって。ほら、まさに、その紫倉とかいう女と同じ心でしょうが」

「でも、和歌をちゃんと返すあたり、光源氏と空蝉はある意味共感していたわけだ。ずっと無視され続けている俺とはレベルが違うよ」

「その紫倉っていう女の本心も、晴明ちゃんに近づくとふっと消えてしまうのよ、帚木みたいに。あなたたちは両想いだっていうことよ」

「そんなに楽観的な状況じゃないんだって。俺はただ、嫌われて避けられているとしか思えない」


 夏越は保母のような慈愛に満ちた表情でほほえみながら、小窓から差し込む弱々しい光に目を細める。

「だいぶ、暗くなってきたわね」

 冷蔵庫の白色に、夕闇が映し出されている。どうやら外ではまた雨が降り出したようだ。 

「それにしても、今年の梅雨は、いっぱい雨が降ったわね。すべてがびしょびしょに濡れちゃってるわ」

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