15 溺死しかけた捕虜

「どうしちゃったのよ、ゾンビみたいになってるわよ」

 夏越は、一井の頭から足までを舐めるように見ながら、白いエプロンを脱いだ。

 日曜日は夏越にとっては勤務日だが、マニアックな展示が並べてあるだけの博物館には常に来館者は少なく、閉館5分前になると、完全に誰もいなくなる。

「ま、今日はいつにましてヒマだったし、とっとと閉めてしまおうと思ってたところなの、ちょうどよかったわ」

 一井がここを訪ねるのは今日で3度目だが、夏越はいつもエプロン姿で陳列棚のホコリを払っている。身体の線が細く、髪も肩まで伸びているので、来館者の目には女性に見えるだろう。

「どうする? 飲みに行く? それとも、話だけならここでもいいけど」

「とりあえず話だけでいい」

「分かったわ、じゃあ、今から施錠してくるから、ここでちょっと待ってね」

 そう言って夏越は、一般展示室の方へと行った。彼の足が板張りの床を踏む音は、壊れたバイオリンが絞り出すラブソングのように館内に響く。

 窓から差し込む夕べの日差しは、木造の建物の内部を黒っぽく、それでいて艶やかに光らせている。


 5分と経たぬうちに、夏越は戻ってきた。

「お待たせ、じゃあ、奥に行きましょうか」

 夏越は少女のような仕草で一井を先導する。

 2人は古文書こもんじょの並んだ狭苦しい書架を抜けて、スタッフ専用の細い階段を上がり、小さな部屋に入った。

 埃臭い部屋の真ん中には年季の入った布張りのソファセットが置いてあり、その周りには本が積んであったりする。壁際には木製のデスクがあって、その横の冷蔵庫の上にはシミのついたダイヤル式の電子レンジが置いてある。

 机の前の小窓からは、1階の展示室の様子が一望できるようになっている。この部屋は、博物館における、夏越の庶務室兼研究室兼隠れ部屋なのだ。


「どうぞ、お座りくださいませぇ」

 夏越は両手で髪をかき上げた後、綿菓子のような埃を絡めた扇風機のスイッチを入れた。扇風機は久しぶりに散歩に連れて行ってもらう犬のように機嫌良く、音を立てて回り始めた。

 一井が風に体をさらしていると、夏越は冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出し、紙コップに注いで一井に差し出した。

「ありがとう」

 ソファに深く座り直した瞬間、尻にスプリングを感じた。建物に染みこんだツンとした匂いも立ちのぼる。座面には「宿命的」とも表現できうる深いシミがついている。

 夏越は自分のお茶に口をつけながら、一井の前にゆっくりと腰を下ろした。

「仕事中に、悪いな、他に行くところもなくてね」

 一井はそう言い、ほっと息を吐き、お茶を口にした。徹底した冷たさのお茶だ。

「どうせボクには仕事と休憩の区別がないことを承知の上で来たんでしょ」

 夏越の言う通りだった。

「それにしても、恋のぬかるみのど真ん中にはまっちゃってるのね。ひどい顔してるもの。大丈夫?」

「苦しくって、仕方がないんだ。どんどんひどくなるばかりだよ」

「まるで、溺れた人の顔をしているわ。そういえば子供の頃、海水浴場で溺死しかけた人を見たことがあったわねぇ。その人はずいぶんおっさんだったけど、浜辺に打ち上げられて、奇特な人が口を付けて人工呼吸をしてたわね。助かったかどうかは知らないけど、あの顔だけは頭にこびりついてるわ。白目をむいて、仰向けにぶっ倒れてね、苦しみもだえた跡が顔全体に刻み込まれていた。今の晴明ちゃんと同じ顔よ」

 夏越は穏やかな表情を浮かべて、髪を耳の後ろにもっていった。

「あのな、俺はおまえに助けを求めに来てるんだよ、頼むから逆に不安になるようなことは言わないでくれよ」

「あ、溺死した人と言うよりは、命乞いをしている捕虜のようでもあるわね。あー、やっぱ、恋って、怖いわぁ」

 一井は紙コップの緑茶をすべて喉の奥に流し込み、もう一杯いれてくれるように頼んだ。夏越は再び腰を上げ、冷蔵庫からペットボトルを取り出した。良く気の利く妹のような動きだ。

 館内に入るやわらかな光が、この部屋の小窓からわずかに差し込んでいる。一井は光の先に紫倉を見つけ出そうとした。

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