14 魔女の微笑み

 明くる日は、いつにも増して、猛烈に蒸し暑かった。

 一井は会長室に向かう前に、トイレに立ち寄った。ここ数日心が疲弊しきっている。手洗い場の鏡の中でぐったりしているのが自分だと思うと、本当に泣きたくなってくる。その点、隣にいる林田は颯爽さっそうとしている。

「君は暑くないのか?」

「もちろん暑いですよ。すでに汗だくですし」

「でも、暑さが応えてるようには見えないからさすがだな。俺なんか、今すぐにでも服を脱ぎ捨てたい気分だよ」 

 林田はどこか誇らしげな顔つきになった。


 一井には求心力がある。この人と目が合った瞬間、別に悪いことをしているわけではないのに、ひやっとする。そういう意味では、すこぶる存在なのだ。

 でも、そんな卑小な自分でも、しっかり評価してほしいと思わせる、そうして、この人のような、魅力に満ちあふれた男になりたいと思わせる。

 きっとこの人には、部下だけでなく、これまで多くの女性が引きつけられてきただろうということは、容易に想像がつく。まだ結婚していないところを見ると、いったいどんな女性と付き合ってきたのか、大いに気になるところだ。

 たぶん、職場のみんなが同じことを考えている。でも、その話題を口にする人は誰1人としていない。それは大きな関心事でありながら、まったくのベールに包まれている。そこがまた、求心力を強めている。

 林田は、できればそんな一井の推薦を受けて、もっと上に上がりたいと考えている。これまで出世だなんて本気で考えたことなどなかった。自分は社会的地位よりも、自分の実力で勝負したいと思っていたのに、ここ数年でずいぶんと変わったものだと、少し驚いている。


 今年のゴールデンウイーク明けに、一井についてトロントの事業所に出張した。

 一井が所長を務めていたオフィスに入るやいなや、社員は全員立ち上がって出迎えた。まるで霞ヶ関の省庁職員のような対応にたじろいだ。

 全ての日程を終えた後、一井の行きつけだったというビストロに2人で立ち寄った。カントリー風にしつらえられた店内で濃いビールを飲みながら一井はつぶやいた。

「もっと力をつけたいんだ」

「力、ですか?」

「そう、人を動かす力だ。この世界は、人徳だけで人が動くほど甘くはないからな。君は何か今、ビジョンを持っているか?」

 突然の質問に、林田は何も答えられなかった。

「もし、これから君が何か大きな仕事を成し遂げようとすれば、それが大きければ大きいほど、多くの人の熱量が必要になるさ。それをマネジメントするためには、君もある程度の職位があったほうがいいぞ」

 店内の明かりが、一井の腕時計をまぶしく反射していた。

「失礼ですが、部長はどんなビジョンをお持ちなんですか?」

を成し遂げる。それが俺のビジョンだ。他人の幸福が自分にフィードバックすることに気づきつつあるんだ」

 林田は一井を凝視した。いくぶんか若さの残る顔と、深みのある瞳が、すぐ近くにまで迫っている。

「この歳になって、誰かのために生きるということの意義深さを感じるようになったんだ。目の前にいる人だけじゃなくて、目に見えない人、不特定多数の人々を含めて、人々のために生きていれば、人生は間違わない。そう考えると、今のままじゃ、まだだめだ。もっと力をつけなきゃいけない。力をつけると、自由度が高まるものなんだ」

 最近になって一井が語った内容はかなり壮大だったということが、徐々に分かるようになってきた。特に「力をつけると、自由度が高まる」という言葉は人生のマイルストーンとなっている。

 一井と行動を共にしていると、現時点の自分にとって、力を手にすることとは、この人に評価されることしかないと気づいた。

 一井はいったいどこまで上がってゆくだろうと想像すると、エベレストの山頂を見上げるような気分になる。この若さでダイニチの要職にいるのは、ただの通過点に過ぎない。きっと、日本を、いや世界を代表する人物になるはずだ。こんな人は今後2度と出会わないだろう。

 もし、この人から見放されることがあれば、自分は絶望の淵にたたき落とされるにちがいない。そんなことにならないためにも、忠誠を尽くそう。

 林田は、エレベーターの鏡の中で一井の隣に立っている自分の姿を見た。シャツの襟元を整えた直後に、エレベーターは停止した。


 林田は秘書課のカウンターに駆け寄り、紫倉に用件を伝えはじめた。

 紫倉は一井がいることを知っているのに、全く見向きもしない。

「では、中に入りましょう」

 林田がさわやかな表情を向けた時、一井は目が覚めた。自分はなにをしに会長室に来たのかを、一瞬、見失ってしまっていた。

 紫倉は例によって、一井の顔すら見ずに、機械的に深々と頭を下げた。一井は、砂を飲み込んだような息苦しさを覚えた。

 せめて電話に出てほしいということを伝えたかった。だが、林田もいるし、そういうことを一切口にできない雰囲気がめらめらと漂っている。

 なんとか心を慰めようと、歩きながら、昨夜の夏越の言葉を思い浮かべる。

「心配しなくてもいいわよ。どうせその女の心には、常に晴明ちゃんのことがあるから」

 

「部長、どうかされました?」

 自分は何か悪い夢でも見ているのではないかと疑った。

 この歳になって初めて見る悪夢だ。


 2人が会長室に入るのを確認した後で、紫倉は自分のデスクに戻った。その時、同僚の加藤は紫倉の顔を見てぞっとした。

「田中さん、どうしたの?」

 紫倉は加藤の方を向いた。

「なんだか、すごく怖い顔をしていたけど、大丈夫かしら?」

「そうですか? そんなつもりはなかったんですが」

「ならいいけど」

 加藤が自分のパソコンに視線を戻した後、椅子に座った紫倉は笑みを浮かべた。その表情は、窓から差し込むけだるい陽光に照らされて、いっそう妖しくなった。

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