19 白い蝉の抜け殻

 だが、何度連絡しても、紫倉は電話に出てはくれない。

 結局、権力を使うことにした。


「どうしてもあなたにお願いしたい仕事があるんだ。もうすぐ海外に行ってしまうと会長から聞きました。だから、として、僕からのオーダーを引き受けてもらいたいのです」


 そのメールを送信しても、返信はない。

 2日後に、秘書室に直接足を運んだ。

「メール、確認してくれたかな?」

 紫倉は辟易へきえきを隠さず、いつものように視線をそらしながら、眉毛をごくわずかに動かした。

「大事な用件なんだ。業務命令としてお願いしてるんです」

 ささやいているにもかかわらず、声が変にうわずっているのを自覚したとき、紫倉はうつむいたまま小さく口を開いた。

「業務命令でしたら、今この場でおっしゃってください」

「この場では、ちょっと言えない。忖度そんたくしてほしい」

「私はもうすぐここの社員ではなくなります。そんな大事なお仕事をいただいても、実行できないかもしれません」

「大丈夫。すぐにできることです。10分もとらない。ただ、どうしてもあなたでなきゃいけないことなんだ」

 紫倉はゆっくりと一井に視線を向ける。その少し憂いを帯びた美しい瞳を見て、ああ、自分はやはりこの女性に恋い焦がれているのだという思いが胸を駆け上がる。

「本当に、10分、ですか?」

「そうだ、10分だ」

 紫倉は再び視線をそらして、唇をキュッと結んで考え込む。

「では、私は、どう動けばよろしいのでしょうか?」

「今日の夕方とか時間が作れますか?」

「えっ? 今日、ですか?」

「無理は言いいません。でも、なるべく早いほうが助かるんだが」 

 紫倉は少し考え込んだ後で言う。

「できれば、来週のほうが、都合がよろしいのですが」

「よしわかった。それまで待ちましょう。来週の月曜日、勤務時間が終わった後で、電話を入れてもらえませんか」

「水曜ではだめですか?」

「かまわない。水曜にしよう」

「あの……」

 紫倉は複雑な色に光る眼球を右下に逸らして、雨漏りのような声を出す。

「本当に、10分で終わるのですね?」

「さっきから何度も言うとおりですよ。もしあなたの方から電話をかけるのがはばかられるのであれば、こっちから電話をしますよ」

 ついに紫倉は、分かりました、と答えた。


 ところが、水曜日になって、約束の時間に電話をしても、紫倉は出なかった。

 たまらなくなって何度も着信を入れると、5回目でようやく電話がつながった。

「いったい、どうしたっていうんだい?」

「申し訳ございません」

「今、どこにいるの?」

 紫倉は少し間をおいてから答えた。

「会社の外です」


 紫倉は白くて薄いカーディガンを羽織り、バスの停留所へと続く歩道を1人で歩いていた。

 一井は自分が運転するBMWを歩道に寄せて、彼女に乗るように促した。紫倉は立ち止まって、花柄の傘をぎゅっと握りしめたまま考え込んでいる。その横顔は、やつれているようにも見える。そんなところが、ますます彼女を美しく見せる。

「私には、一井部長とお話しできないがあるのです」

「分かっているよ、ご主人がいるっていうことだろう?」

「それだけではありません」

「じゃあ、何があるというの? 何でも話してほしいんだ」

「それは……、絶対に言えません」

 紫倉は眉間に皺を寄せて唇を噛みしめた。

「分かったよ。とにかく車に乗ろう。こんなところで立ち話をするもんじゃないよ」

「時間はかからないんですよね?」

「もちろんだ」

「でも、一井部長は、私の思いを踏み倒してまでも、物事を強引に進めようとなさる」

 紫倉はいかにも恨めしそうに言う。

「大丈夫だよ。もうじき京都を去ろうという人に、意地悪をするつもりはない。さあ、乗ってください」

 紫倉は不満そうに首をかしげながらも、ついに後部座席へと乗り込んだ。彼女がドアを閉めた瞬間、やさしい香りが車内に立ちのぼり、空気が一変した。


「プノンペンに行ってしまうっていうのは、ほんとうの話なの?」

 BMWが動き出してから、一井は聞いた。紫倉は、ええ、本当です、と素っ気なく答えた。

「寂しいな、たまらなく寂しいよ。できれば嘘であってほしい」

 紫倉は完全に無表情のまま雨上がりの京都の街並みに目をやっている。その表情の内側でどんなことを考えているのか、一井には全く見当がつかない。

「僕の気持ちは分かってもらえているはずだ。あの日からずっと君のことを思い、苦しみ続けているのです」

 紫倉は窓の外を眺めながらこう言った。

「それが、業務命令の内容でしょうか?」

「ちがうよ。今のはイントロダクションだ」

 BMWは国道に入り京都駅へと向かった。

「君ときちんと話をしたいんだ」

「つまり、それが業務命令だと言われるのですね?」

「まあ、そういうことです。今からでも良いし、別日を設定してもらってもいい。とにかく話がしたいんです」

 それからしばらくの間、沈黙が続いた。一井は、今からホテルモントレの個室で食事を取ろうと考えている。


 九条烏丸の交差点で、赤信号で停止した時、突然、後部座席が開き、紫倉は傘とバッグを手に取って腰を上げた。

「申し訳ありません。もうじき私は、京都を離れてしまうのです。お話しすることは何もございません」

 一井は咄嗟に身を乗り出して紫倉の腕をつかんだ。しかし彼女の動きの方がわずかに早く、白いカーディガンだけが脱げて、彼女は真夏の京都市内へと飛び出し、顔を覆いながら細い路地へと消えていった。

 一井の手には今まで彼女が着ていた白い薄手のカーディガンだけが残った。


 明くる日、秘書室に駆け上がると、紫倉は昨日限りで退職手続きをすべて済ませたという説明を受けた。

 彼女が座っているはずの秘書室の席には、何をしていいかまったく分からずに戸惑っている若い女性が、さっそく今日から座っている。まだ一井の身分すら知らないらしく、外部からの客と間違えられるほどだった。

 一井は彼女の忘れ物の入った紙袋を手に提げたまま、敗戦の兵士のようにエレベーターの方に引き返した。


 それから後のことはまったく覚えていない。どこかを打撲したわけでもないのに脳しんとうになったようだった。

 気がつけばBMWに乗って、近くの公園の駐車場にいた。

 紙袋から取り出した白いカーディガンからは、彼女の存在が絶望的な寂しさとともにゆらゆらと立ち上がる。

 まるで蝉の抜け殻を手にしているかのようだった。

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