"蜜月" リーネ・ミナイ


「ねえ、ヒロノブ……」


「うん? どうした?」


 セキネン帝国による、魔将軍・ユキの支配領域への侵攻作戦から早二週間。ヒロノブ・アサイとアカネ・セキは、中央諸国地域へ向かっていた。


「この街、なんだか静かすぎない……?」


 空には煌々と月が輝き、星々が負けじと天を覆い尽くす。それは今が夜中である証だが、アカネの感覚が正しければ、まだ草木が眠るには早い時間だ。

 経験的に言うなれば、ここのような中規模の街中ならば今頃は酒場の稼ぎ時であり、賑わった店の数軒くらいなければおかしい。酒場の無い通りだとしても、足音一つすら聞こえない程にまで人の気配がないというのは考え難いだろう。


「うーん、確かにそうかも……っ!?」


 カツンと一つ、靴音が鳴った。眼前、噴水の広場に伸びる影が二つ。

 一方は長い。黒いドレスが肌とコントラストを生み出し、濡羽色の髪がその上を這う。妖艶な唇、そして透き通るような黒の瞳。その姿は『美女』と呼ぶのに差し支えない。

 一方は短い。だがそれ以上に、病的なまでの白さが不気味だった。髪、肌、籠手、鎧、そして何故か両目を覆う布、その全てが白い。獣性を剥き出しにした臨戦態勢、荒い吐息が冷えた空気に晒されて消える。


 この街に何が起きたかはわからない。だが、その犯人は恐らく、目の前の二人だろう。


「待ってたわ……そして、逢いたかったわ、強い人……ヒロノブ・アサイ」


「!?」


 どうして名前を知っているのか。そして、待っていた、逢いたかった、とは一体どういうことなのか。突然のことに困惑するヒロノブをよそに、女は言葉を続ける。


「ゴメンなさいね、本当ならすぐにでも貴方を私のものにしたかったのだけれど……」


「ちょ、ちょっと、『私のもの』って、一体どういうこと? それに、この街は」


「どうすればいいか、わからなくって。だから、こうするしかなかったの。……許して、頂戴ね?」


 アカネの言葉を遮って続けた女の顔には、一切の悪意もなかった。


 底知れない気味の悪さを感じ、顔をしかめるヒロノブとアカネに、黒い女は目を細める。


「でも……そっちは、いらないわ」


 空気を裂く音、筋肉のしなる揺れ、それらを遅れて知覚すれば、背後の煉瓦にヒビが入る。視界を染めた赤い血は、アカネ自身のものだった。





◇◆◇◆◇





 幼少の頃、彼女はただ純粋に魅せられていた。憧れていた。画面の向こうで戦うヒーローに、ヒロインに、彼らを追い詰める悪者に。彼ら、『強い』ものに。


 いつからだろうか、それが歪んでいったのは。人の変化というものは、なにも明確な切っ掛けがなくても、気がつけば起きていることもある。或いは、生来の性質の顕現にすぎないのかもしれない。

 兎も角、彼女が十代になる頃には、単なる憧れから自分のものにしたいという独占欲求へと姿を変えていた。



 そんな折、彼女に大きな転機が訪れてしまう。


「ふざけんなッ!!」


「やめて! あなた、やめて!」


「なんで、俺がっ! こんなっ、このぉッ!! お前が、お前がそんなんだから!! ふざけんじゃっ!! ないよ!!」


「いたっ! ……ッ! ッ!!」


 男の怒鳴る声。女の悲鳴、それを堪える息の詰まった音。


 打撲。打撃。破裂音。


 叩く音。ぶつかる音。叩く音。


 父が母に暴力を振るう姿を、彼女は見てしまった。その姿は、この時点での彼女にとっては、強者の振る舞いそのものだった。

 故に、彼女は。

 その光景を見て、父への憧憬を見てしまったのだ。



 父親の豹変は、ほどなくして世間の知るところとなる。


「やめて! お父さんを連れていかないで!」


「……っ、理衣子りいね!」


 近隣住民か、或いは母親自身なのか、通報があったのだ。そして、事態は既に手遅れだったらしい。自宅に突然やってきたのは、令状を持った警察官だった。

 駆け寄って叫んだところで、逮捕を取り消せる訳ではない。この時の自身の姿を見下ろす警察官の憐れむような目を、母親の絶望したような目を、彼女は強く覚えている。



 ――その翌朝、「ごめんなさい」という置き手紙と共に、彼女は独りになっていた。





◇◆◇◆◇





 レンガのヒビ割れる音と共に、現状が把握される。今、自分のすぐ横にいる人物は極めて危険であると、脳が警告のベルを激しく打ち鳴らす。だが、それに身体は追いつけない。


「くはっ……!?」


 脇腹に入った一撃。軋む骨、揺さぶられる臓物。だが、そこにあるのは明確な手加減だ。


「そうそう、そっちは殺しちゃダメなの。手加減できて偉いわ」


「ウウゥゥ……アアッ!」


 次に振るわれた拳には、剣を抜いて当てるのが限度だった。


 拳と剣がぶつかり合い、金属音が街の中央通りに鳴り響く。そこには覆せない力量差が、根本的なレベルの違いがある。剣を持つヒロノブの方が劣勢なのは明白であった。


「しまった……!」


 ヒロノブの一瞬の隙を突いた攻撃は、拳ではなく脚だ。それをヒロノブは防げず、そのまま転倒する。


「さて……どうすれば、アナタは私のものになるのかしら」


 白い方が下がり、黒い女が前に出て近付いてくる。見る者すべてを惹き寄せるような姿に、ヒロノブは眉を顰めた。


「お前は、何者なんだ!? なんで僕を狙う!?」


「だって、私は強いのが好きだから。好きなものは、欲しくなるでしょう?」


 その答えに、ヒロノブは息を呑む。

 女の応答には一切の間がない即答だった。女の顔に迷いは無く、狂いも無い。だが、その目に正気が宿っているとも思えない。

 恐ろしい、と。無理解から来る拒絶感情をあと一歩のところで押し込める。


 ――だが、それでは女の思う壺だ。


「だから私は、アナタが欲しいの。強い、強いアナタが」


 覗き込むように顔が寄せられる、頬を撫でようと手が伸ばされる。


 なぜ、この人は自分を求めるのだろう。

 この人は、強いものが欲しいと言った。だが、自分がそんなに強くはないと知っている。今さっきだって、それを見せつけられたばかりじゃないか。弱いのに、弱い自分を『強い』と言って求めてくる。全く以って、わけがわからない。


「私はリーネ。ヒロノブ・アサイ、アナタを、頂戴な」


 ……もしかしたら。もしかしたら、だ。

 この人のものになれば、強くなれるのかもしれない。弱い者の正義は、それを通す力がないのだと、教えられてきたではないか。

 ならば、今この時は、この女に身を委ねてしまっても――


「ッ!」


 伸ばされた手を受け入れようとしたその時、リーネとヒロノブの間に赤い光が通った。


「……まだ、意識がありましたか」


 それは炎の矢だった。"火炎弓"の力で生み出されたものである。


「この位で、死んだことにされちゃ、たまらないわね」


 放たれてきた方向を見れば、壁に身を委ねながらも、その手に炎の弓を持ったアカネがいた。額の血を拭くこともせず、ただ真っ直ぐに、リーネを睨んでいる。


「仕方、ありませんね……ペレ」


「ウゥ」


「殺しなさい」


「ウゥ、アアアア!!」


 ペレ、と呼ばれた白い少女がアカネに向かって急接近し、腕を振り上げる。それは、その速さだけでも暴力を為すもの。加えて腕が振り下ろされるならば、もはや絶命は免れないだろう。


 果たして、それは。


「……ペレ?」


 振り下ろされることが、無かった。



 その時、ペレ=セペンが目にしたのはブローチだった。嵌め込まれているのは青い宝石。独特の模様が刻まれたそれは、リネンの秘石に違いない。


「ア、ウ、ウゥ……!」


 強く締め付けられるような頭痛に、ペレはその場で膝を落とす。頭を掻き毟り、呻く。バチバチと電流が走るような感覚に捕われ、身動きができない。


「チッ……ペレ!!」


 リーネの呼び声に、ペレは我に帰る。徐々に痛みは引いていき、そしてリーネの方に顔を向けた。


「はぁ……今回は、ここまでにしましょう」


 リーネは自分の髪を苛立たしそうに撫でつけ、ヒロノブのもとを離れる。まるで、それまでの熱が冷めたかのように、女の仕草からは妖艶さが無くなっていた。

 そして、アカネ前に立てば、襟を掴んで顔を近付け、言った。聞くものを魅了するその声色を、苛立ちで濁らせて。


「貴女、気に入らないわ」


 アカネを投げ捨てたリーネは、ペレを連れて夜の闇へと消えて行った。

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