帰還

 一部隊を纏める指揮官に与えられる執務室はそこそこに広く、加えて朝から晩まで止むことを知らない雨のために底冷えがする。

 山や森に群青する針葉樹や広葉樹が、もっとも濃く新鮮な色をつける季節だというのに、王都から離れた山間の場所にあればそれなりに冷えるようで、使い込まれた暖炉には鮮やかな赤が見える。

 イレスダートのこの時期に雨がよく降るのは、めずらしくはない。しかし夏の訪れにはまだ遠そうで、もうすこし北にゆけば未だに降雪がつづいているという話をつい先日行商人にきいたばかりだ。さすがに、多少なりとも誇張されているのかもしれないが。

 執務室に籠もってからすでに五時間は経過していたものの、ひとつの山を片付けたところで次から次へと増えるので際限がなかった。報告書や始末書、あるいは住民からの要望など。後回しにしていなくとも、これだけ数が多ければ自然と山ができていく。だから、これはけっして怠惰の現れではないと、ロベルトは思っている。

 三本目の蝋燭を変えたときに、扉をたたく音がした。

 両手いっぱいに羊皮紙を抱えた扈従こじゅうは扉を身体で押し開けながら入ってくる。またひとつ山が増えた。ロベルトのため息を無視して、扈従は慣れた手つきで今にも崩れそうな山のなかからそれを探し当てる。七日前に王都から届いた書状だった。まだ封蝋も切ってはいない。

「王都からの使者は、ベルク将軍をお待ちですよ」

 ロベルトはその呼び方が好きではなかった。

 何度か改めるように言ったものの、扈従はまるで無視だ。特定の騎士団に属さずに、傭兵さながらの生活をしていたロベルトを見つけ出した扈従はひとつ下の歳で、ずっと前に戦場でロベルトに命を救われたと言っていた。ロベルトはその時のことを覚えていない。ただ押し掛け女房のようにやってきたこの若者を、今さら追い返すのが面倒だっただけだ。

 使者というのが白騎士団であるのか、それとも元老院であるのか興味はなかったが、要件はわかっている。ロベルトはやおら立ちあがり、受け取った書状をろくに読みもしないうちに暖炉へと投げ入れた。

「……よろしいのですか? それは国王陛下からの、」

「中身は読んだ。問題はないだろ?」

 ロベルトがこうしたたちであると知っているからか、扈従は相好を変えずにいる。しかし、王命はやはり気になるようで、視線もそのままだ。

「聖騎士殿の帰還だ」

 扈従は思考するような時間を置いた。学年がひとつしかちがわなければ面識もあるのかもしれない。彼が、ロベルトのかつての友だと知っているならばなおのこと。そこになんらかの感情を抱いていてもおかしくはないだろう。だが、戦場にて友は優先されるべきものであってもそれは味方であればの話、一度袂を分かった者はもう敵だ。敵と交わすのは葡萄酒のグラスなどではなく、刃のみ。そう士官学校では教えられてきた。

「では、丁重に持て成せと。そういうことですね?」

 答えるまでもない。ロベルトは微笑する。扈従はロベルトに一揖し、しかし扉を開ける前に思い出したように言った。

「ところで、お待たせしている客人には?」

「見てのとおりだ。忙しい」

 ロベルトの目顔には不満がたっぷりと含まれていたものの、扈従は素知らぬ顔をする。

「かしこまりました。それで、出立はいかほどに?」

「十日後だ。それまでには終わらせる」

 二度目のため息には苦笑が返ってくる。同情はしてくれるようだが雑事のすべてを扈従に押しつけるわけにはいかないし、なによりも最後には指揮官の署名が要る。

 扈従が扉を開けたと同時に複数の声がきこえてきた。声、というよりも歌に近い。ロベルトは扈従を呼び止めていた。

「教会関係者ですよ。ここに逗留したのもヴァルハルワ教徒が多いからでしょう」

 今度こそ扈従は出て行った。

 たしかに教会の者ならば、そこに聖歌隊もいるのかもしれない。

 城塞都市が落ちてからというもの、そこから逃れてきた者たちも少なくはなかった。イレスダートの大地に降り注いでいるのは恵みの雨などではなく、血の雨だ。瑞々しく育った新緑の草木は赤の色に染まり、鉄と血のにおいが充満するその場所に、ロベルトはいる。

 しかし、先ほど届いた歌声は挽歌でも鎮魂歌でもなかった。



 聖なる炎を灯せ

 ぼくらは聖王の子ら


 おそれは要らない

 ぼくらは聖王の子だ



 覚えているのはここまでだ。二度目にきいたときにロベルトは夢と現実との境目にいたし、なによりもロベルトはうたが好きではなかった。それでも、あのうたは皆が知っていた。戦いに疲れた少年たちが気持ちを休めるためにうたう。ここまで一緒に戦ってきた友を想って口遊む。だから、ロベルトは今でも戦場であのうたがきこえる。あれは、星たちのためのアリアだった。

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彗星たちのアリア 朝倉 @asakura

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