命の代償
ロベルトは自分がどのようにして、王都マイアの士官学校へと戻ったのかを覚えてはいない。
自分の足でちゃんと歩いていたのか、それともずっと他人の世話になっていたのか、記憶からは抜け落ちていた。
ただ、大人たちの声だけは耳の底にしっかりと残っている。あれはもうだめだ。いや、素行は悪くはない。そうだ、見込みのある若者だ。しかし超罰室に二度も入っている。やはり問題のある生徒ではないのか。成績優秀とはいえなくとも卒業はできるだろう。然るべき処置を取るのが正しいのではないか。
高熱が終わっても体力はなかなか回復せずに、ロベルトはすこし痩せた。医務室でもほとんど寝たきりだったので、身体は弱ったままだ。それなのに、ときどきひどく暴れ出す。丸眼鏡の年配の医師は、ロベルトばかりに構っている暇はないとばかりに
王宮魔道士たちはもうここにはいないので、ロベルトの面倒を見るのは見習い魔道士たちだけだ。しかし、怪我人でもないロベルトはそのまま放置されて、ただ一日をぼうっとしている。ぼそぼそとつぶやく独り言がよほど気味悪く見えるのか、皆が嫌がるようになり、けっきょく顔見知りである神の申し子エリックが付き添っていた。エリックはロベルトに殴られたことを根に持っているのだろう。仕方なしに引き受けたので、ロベルトに殊更強く当たる。
食欲が出てくればやっと体力も戻ってくる。はじめは足が思うように動かずに、ロベルトは苦労して自分の部屋に向かった。たぶん、追い出されたというのが正しい。ロベルトは自分のことなのに、まるで無関心だった。そして、今置かれている状況にも。
寝台と机がふたつ並んだだけの狭い部屋でも、開けたときにほっとした。
ロベルトは寝台に倒れこんでしばらく動けなかった。ちょっと歩いただけでこれだ。情けないと、自分を罵る元気もないままにロベルトは瞼を閉じた。
目が覚めたのは夜になってからだ。わずかに見える灯りは、右の窓側の机からだった。自分で燭台に灯した覚えはなかったし、部屋には誰もいなかったはずだ。いつ帰っていたのだろう。ロベルトは目だけで彼の動きを追っていた。熱心に読んでいるのは何かの参考書なのか。この位置からはよく見えない。しかし、休校となった今は試験も延期されているはずで、それよりも妙なのは彼がなぜここにいるか、だ。
ブレイヴはロベルトとおなじ部隊ではなかった。
なにしろ彼はアストレアの公子だ。ロベルトとはまるで身分がちがえば、それだけ命の重みも変わる。あんな危険なところに駆り出されるわけがない。血と鉄と、生と死と。それよりずっと遠い場所に、あるいは祖国へと帰ったとばかりにロベルトは思っていた。だけど彼は、今たしかに、ここにいる。
視線を感じたのか、彼はロベルトを見た。表情はやや驚きながらも安堵したような、そんな目をする。
「よく、ねむっていたから起こさなかった」
彼は立ちあがると今度はロベルトの向かい側に座った。次の声がなかったのは、ロベルトの反応を待っているのだろう。けれども、ロベルトはうつ伏せのままでいる。ちょっと動くだけでも億劫だった。
「ハムサンドを作ってもらったんだ。でも、ごめん。たいぶ時間が経っているから、もう美味しくはないかも……」
彼は目顔でロベルトの机を指す。ロベルトが何の関心もなさそうにしているので、彼もまた空白の時間を作る。何から話すべきか、話の順番でも考えているのだろう。
初陣とはいえ、戦場でのロベルトは無様なものだった。もう皆知っているはずだから弁明をしようとは思わない。それなのにロベルトはひどく苛立っていた。彼の目には同情も憐憫もどちらも見えず、こうした沈黙は彼がよくする癖のひとつだ。
別にどうってことはない。ブレイヴはときどき、こうして考えながら声を落とす。ロベルトのためなんかじゃない。これは不要な気遣いだ。
「明日、午前中に面談室に来なさいって、教官が」
用件はきく前からわかっている。ロベルトにその意思があるかないかの確認だ。いや、ちがう。前者であっても、教官たちはロベルトをどうせ見捨てる。ロベルトは下流貴族の子で逃亡兵だ。
「だけど、俺は……、ロベルトに決めてほしい。ここを、辞めてほしくはない」
ロベルトは耳を疑った。
別に仲良くもない相手だ。ただ同室で、他にもすこしだけ関わったことがあるだけで、特別な感情なんてなかった。彼は、どうだったのだろうか。ロベルトに友情を感じていたのかもしれないし、あるいは道義心からだったのかもしれない。どちらにしても、ロベルトには無縁の言葉だ。
そういうところが、嫌いなんだよ。
怒りはすぐに外へと出て行かない。ロベルトの作った拳が震え出している。きれいなものだけしか見たことないくせに、きれいなことだけを言う。理想ばかりだと、ロベルトは思う。
「おれのことは、放っておいてくれ」
どうでもいいから一人になりたかった。返事はなく、しかし二呼吸後には扉が閉まる音がした。ロベルトはふたたび瞼を閉じた。
翌日、ロベルトは面談室を訪れた。
いつもロベルトを指導した教官はもういなかった。教官を辞したのは建前で
ロベルトの向かいに座る教官は、最初から最後まで不機嫌だった。病人みたいに色白で、痩躯な癖に目だけがやたらと大きい。物言いは理屈っぽい上に早口なので声が拾いにくくて、それからロベルトに肯定の返事をさせようと、必死なのが見え見えだった。
はじめは素直に相槌を打っていたロベルトも、そのうちに馬鹿らしくなってきて黙り込んだ。おとなしく教官の声をきくだけが騎士じゃない。それに、どうせおれはもう戻れないんだ。
そうだ。ロベルトは、はじめからどこにも行けなかった。
けれど、ロベルトは戦場を知っていて、命の重みだっておなじくらいに知っている。そうやって見習いたちは騎士になる。
半ば追い出される形でロベルトは面談室を出て行った。ため息が勝手に落ちたのは単に疲れたからで、それにしてもあの教官の顔は見物だった。従順な見習いを演じるのはやめた。ちょっとでも道から外れたら、教官たちはロベルトをすぐに問題児扱いにする。
食堂が開くにはまだ早ければ、自習室や図書室にも用事がない。彼は夕べ帰ってこなかった。追い出したのはロベルトで、けれども今頃になって急に後悔した。あちこち探し回っても彼を見つけられずに、諦めかけたそのときに教官に会った。アドリアンは微笑する。
「その様子では、はいとは答えなかったようだな」
教官の顔をしていないアドリアンを見るのはひさしぶりだった。説教をされた日以来か。でも、アドリアンの小言ならロベルトは耳を傾ける。
「おれ、ちゃんとここに帰ってきたから。言いなりにはならない」
「ならばまず、パウルやエリックに礼を言うんだな」
ロベルトを見限らずにいたのはあの二人だ。記憶は曖昧なのにひどい言葉を吐いたり、暴れたりしたのを覚えている。まだ、謝罪してもいない。
「それからマルクスとブレイヴにもだ。彼らは校長に直談判した。それほどお前は認められているということだ。……良い友達を持ったな」
「べつに、おれは」
「そう意地を張るな。ああ、そうだ。お前が医務室にいるあいだに下級生が一人、何度か見舞いに来ていたらしい。名前は……、ききそびれてしまったな」
一人だけ思い当たりがある。けれど、その下級生の前でもロベルトは醜態を晒した。幻滅しただろう。ロベルトだったら、もう関わろうとは思わない。
「ロベルト。お前は何も間違ってはいない」
アドリアンはロベルトの肩をたたく。最初の頃、ロベルトはこの手がおそろしかった。喉の奥が熱くなるのはなぜだろう。頭ごなしに叱られるか、全部否定された方がずっとよかった。
「だけど、おれは人を殺した。それに戦場から逃げたんだ」
「騎士とは人を殺すのが仕事だ」
ロベルトは息を止める。
「自分を責めるな。あれは誰の失態でもない。戦死した仲間たちへの労りと、敬意を忘れろとも言わん。しかし、今ここに戻ってきた自分自身に、まず誇りを持ちなさい」
でも、おれは、みんなのことを見捨てた。自分が生きるために人を斬った。それが、おそろしくてたまらなかった。逃げて、逃げて、逃げて。ようやくたどり着いて、仲間たちに迎えられて、腹を満たしたあとには汚れを落として、人間へと戻ればおそろしさだけが残った。そうして、狂う。それが、人を殺した最初。
「どうして、おれに言ったんですか?」
アドリアンの双眸には一瞬だけ驚きのような色が見えたが、教官はそれをすぐに消した。
「生きることを諦めるな。騎士である前に、お前は人間だって」
ロベルトのためだけに落とした声ではない。特別な意味として受け取った者がどれだけいるだろう。アドリアンは他の教官がけっして口にしないことを言う。騎士には要らない言葉を吐く。他の連中はきっときき流していた。ロベルトは、ちがう。
「そうしてほしいと思ったからだ」
けれど、それでは騎士にはなれない。騎士が人を殺すことが仕事ならば、騎士は戦場で死ぬことが仕事だ。それなのに、あの日のロベルトには選べなかった。アドリアンの声がなければきっと死んでいた。いいや、そうじゃない。臆病で弱い人間なんだ、おれは。善人は志半ばで倒れて臆病者だけが生き残る。
ロベルトの逡巡のあいだにアドリアンはいなくなっていた。
また部屋に閉じ籠もるのはいいが、それでは余計に塞ぎ込んでしまいそうだ。ロベルトは当てもなく彷徨う。食堂に自習室に図書室に、医務室はすぐ追い出された。けれど、うたうたいのパウルも神の申し子エリックにも会わなければ、彼もまだ見つからなかった。そのうちに夕方の時間がはじまる。ところが、諦めかけたそのときに目が合った。後ろめたそうにすぐ逸らされた視線に、ロベルトは嘆息する。
「今日も戻ってこないつもりかよ」
彼を邪魔者にしたのはロベルトで、あれはほとんど八つ当たりだった。
「話したいことあったけれど、どう言えばいいのかわからなかった」
だからずっとここにいたのだろうか。校舎の裏の見習いたちが寄りつかない場所で、いつだったかロベルトとマルクスが決闘したところだ。嫌なことを思い出してしまった。あの日もロベルトはブレイヴを拒絶して、アドリアンには説教をされた。
「俺も、まだ手が震えるんだ」
何の話かわからずに、ロベルトはまじろぐ。彼は微笑していた。
「情けないと、思う。ここを卒業して騎士になって戦場に立つ。それから……聖騎士に。それなのに俺は、知ったつもりになっていた。現実を見ていなかった」
たしかに彼の右手は震えていた。ロベルトもそうだった。あれから何日も経っているのにまだロベルトは夢を見る。この手は人殺しの手だ。詰る声はロベルトを許してはくれない。だからもう、ロベルトは騎士以外のものにはなれない。
「でも、次の日には三人を斬った。また吐いて、夜には熱が出た。その次の日も次の日にも……俺は、たくさん殺した。そのうちに何も感じなくなっていた。それなのに、手が震える。本当は逃げたいと思ってる。どこにも行けないのに。これじゃ、まもれないのに……」
なんだよ、それ。
ロベルトは口のなかで言う。おまえは、おれとおなじものを見たんだ。おなじところにいたんだ。
戦場に立てば下流貴族も上流貴族もなくなる。血と肉と、生と死だけがある場所。そこから離れた安全なところにいる奴なんてごくわずかで、そんな奴は本当の騎士なんかじゃない。ああ。やっとわかった。ロベルトはアドリアンの言うことを理解しようとしていなかった。
泣けば良いのにと、思った。そうしない理由でもあるのだろう。彼は自分の手を見つめている。そこには過去しかない。
「だけど、おまえはそれでも、剣を持つ」
けっきょく、生き残った者が選べるのはひとつだけだ。だから、懺悔も悔恨も一度きりでいい。
「おれも、ここを辞めない」
足りなかったのはなんだろう。けれども、心は捨てていかない。
「ほんとうに……?」
友の声にロベルトはただうなずいた。
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