イレスダートの王女

 雨は昨晩からずっと降りつづいている。

 イレスダートは季節の変わり目にこうした雨がよく降る。一雨来るたびに寒さを伴いながら、そうしてすこしずつあたたかな時期へと移り変わっていく。しかし、今日の雨は止むどころか、やがて雪へと変わった。水分を多く含んでいるので積もることはなさそうだが、とにかく底冷えがする。白の間には暖房装置が備え付けられていなかった。身体はすっかり冷えていても、ロベルトはただじっと動かずにいる。王の声はまだ終わっていなかった。

 厳かな物言いはたしかに力強くもあり、しかし威圧的にはきこえなかった。落ち着いた年相応の声色は優しくて、その顔を間近で見てみたくもなる。けれど、背伸びしようものならば、ここから追い出されてしまいかねない。そもそも、ここからでは遠すぎるのだ。

 真紅の絨毯に足を乗せるときに、ロベルトはすこし緊張をした。

 白の間が開かれるのは限られていて、そこに呼ばれるのは麾下きかの騎士か、あるいは上流貴族だけだ。隣の奴はずっと胴震いをさせている。寒いのか、それとも高貴な人間を前にして感動しているのか。ロベルトにはわからない。 

 ロベルトは正面を見据えていた。皆はそれぞれ敬虔な顔を作って、そうして佇立している。きっと、それがただしい。けれども、愛国心など持たないロベルトにはこれが退屈な時間に思う。王の言葉はそのどれもが綺麗ではあるものの、それはおそらく本当の王の言葉ではないのだろう。アズウェル王は温厚な人間で争いごとを好まない人間だった。しかし、それは怯懦であるのと同様の意味だ。人々はそう噂する。だから元老院の操り人形なのだとも。

 ロベルトは今、自分の心にある感情はなんだろうと、思う。

 あれだけおそろしかった戦場も慣れてしまったのかもしれない。悔恨もなければ罪悪感も消えている。騎士になるというのは、そういうことなのだろう。心のなかが麻痺したみたいだ。

 ロベルトがぼうっとしていたあいだに、白の間は静まりかえっていた。ところが、急にその場がざわめき出した。白の間に響いた声は若い娘のもので、落ちると同時にまた皆は静かになった。ロベルトは視界の端でやっとその姿を捉える。なるほど。騒ぎ出したのは玉座にほど近くにいた者たちだ。元老院は、彼女の動きを予測していなかったらしい。 

 彼女は今一歩、前へと進み出る。やはり容貌はここからではよく確認できず、けれども彼女の挙措きょそは実に堂々としていた。そう。玉座へと近づくことを許されているのはマイア王家直系の者だけだ。アズウェル王は両親を若いうちに亡くしている。兄妹もまた弟が戦死して、妹は死産だったという。あとは、アズウェル王の子が三人。長子アナクレオン王子と、母をおなじとするのがこのソニア王女だ。  

 たしか歳の頃はロベルトよりもひとつ上で、十七の娘の言葉にしては貫禄すら感じ取れる。ただし、彼女の声はアズウェル王とはちがって、あらかじめ用意されたものではなかった。ときおり、声が途切れるのはソニア王女が嗚咽を堪えているからだ。あれは演技などではなかった。とにかく、慰霊式典としては成功したといえるだろう。ロベルトの隣の奴は啜り泣いていた。

 次にロベルトたちが集められたのは控えの間だった。

 見習いたちだけのために用意されていたのは、淹れたてのお茶と焼き菓子の数々にサンドイッチと机いっぱいに並べられている。これだけでもうちょっとした茶会みたいだ。見習いたちはほとんど手をつけずに、ロベルトもそれに倣う。晩餐会まで時間を持て余していてもあまり食欲がなければ、とにかくここが落ち着かないのだ。神の申し子エリックが祭儀の手伝いに忙しくしているのはきいていたが、他にもパウルやマルクスといった顔見知りもここにはいなかった。別のところに控えているのかもしれない。ロベルトは白の王宮に入るのがはじめてだった。きっと、これが最初で最後なのだと思う。

 やがて夜の時間が近づいてきた。

 士官生たちを迎えにきた白騎士団の騎士はまだ若く、けれどもひどく無愛想で見習いたちの前でにこりともしなかった。ただ、挙止は騎士のそれであり、士官生たちは騎士を憧憬(どうけい)の目で見る。王都マイアではたくさんの騎士団が存在し、そのなかでも白騎士団が特別視されている意味が、すこしだけわかったような気がする。騎士とは本来そうあるべきなのだ。

 赤の間に入ったときに、ロベルトはいきなり眩暈がした。

 美しく着飾った貴婦人たちも、談笑をたのしむ青年貴族たちも、おそらく上流貴族だろう。そして、彼らの関心は士官生たちに向く。憐憫や同情の言葉はけっして嘘ではなかったと思う。しかし、ロベルトは居心地の悪さからか、作った笑みを保つだけで精一杯だった。

 晩餐会の出席者は百名を超えていたが、長机にはとても食べきれないほどの食事が並んでいて、それもどんどん追加されている。年代物の葡萄酒ワインは数種類が用意されて他にも林檎酒シードルが、酒は特に好まないロベルトは林檎酒をちびちびと飲んだ。食事もどれから手をつけるべきか。鴨肉のソテーに羊肉とレンズ豆の煮込み、熱々の鶏肉のパイもまた美味しそうで、口のなかに唾が湧く。白身魚の蒸し煮や数種類のチーズを挟んだ卵料理に、塩漬けのニシンは丸ごと噛りつかずにちゃんとナイフとフォークを使って頂く。じっくりと煮込んだ根菜のスープは身体が芯から温まるだろう。ソーセージは、イレスダートの南に位置するオリシスから取り寄せたらしく、葡萄酒によく合うという。彩り豊かに盛り付けられた野菜サラダも新鮮そのものだ。

 ロベルトはそれらをちょっと摘んだだけだった。あまり食べものに夢中になるのもなんだか恥ずかしいし、なによりも上流階級の者たちの会話にはついていけない。こんな明るい場所でまで政治や軍事の話をききたくはなかったのだ。それでも、自然と耳には入ってくる。

 北の敵国ルドラスの侵攻は、秋を境にぴたりと止まった。

 イレスダートの北部にこそ敵の侵入を許してしまったものの、北の蛮族をそれ以上南下させなかったムスタール公爵の功績を皆は称える。かつての教官はやはりここでも英雄の扱いだ。また、戦場で武勲を立てたのはムスタールだけではなく、他の公国もそれにつづいたからだ。しかしながらイレスダートとルドラス、双方の損害は甚大であり、敵国が撤退しなければどうなっていたことか。戦争では莫大な金が動く。儲かるのは商家だけで次第に民は餓える。王都で混乱が広がらなかったのもあらゆる規制がされていたためで、指揮していたのはアナクレオン王子という噂だ。王子には軍事権は与えられていなかったが、それでも政治的な能力は高く評価されているようだ。

 金にしても物資にしても、取り返しの利くものはまだいい。失われた命だけはどうあっても帰ってはこない。だから、今日という日に慰霊祭が行われた。犠牲者には士官生も多く含まれている。ここに集まった貴族も騎士も、あれは失敗などではなく事故であったと言う。ロベルトもそう思う。

 あの日、視界を遮るほどの霧のなかでロベルトの部隊も進軍し、壊滅した。失策であったと訴える者もいて、たしかにそれは事実である。けれど彼らの行動がなければ無辜むこの民はもっと涙を流していただろう。実際、奴らはイレスダートの北部を蹂躙し、略奪行為をしていたのだから。

 奴らの目をこちらに向けさせたというのが功績であり、勇敢な行いであったと称えられたところで、誰かが救われたわけではない。とはいえ、悪いことばかりでもなかった。若い命が失われたことはそれだけ人の心を動かせる。今、和平へと話が進んでいるのも、けっして流言りゅうげんではないはすだ。

 だけど、未来を、光を託したものたちの想いは、どこへゆくのだろう。

 ロベルトは瞼を閉じる。あのとき、ロベルトを逃がしてくれた上級生たちの声を、顔を、ロベルトは忘れたりはしない。彼らは明日を信じて戦って、そうして死んでいった。ロベルトには愛国心がない。王家のために、国のために、誰かのために剣を持ったわけじゃない。じゃあ、なぜ、おれはここにいるんだろう。

「ロベルト?」

 人の輪からは遠ざかり、端っこの方へと移動していたロベルトを彼が見つけた。

「どうしたんだ? すこし、酔った?」

「ちがうよ。疲れただけだ」

 二人掛けのカウチでもちょっと狭い。ロベルトもブレイヴも背が伸びたせいだ。

「おまえこそ、あそこにいなくてもいいのかよ」

 同級生たちはお喋りをたのしんでいるし、上流貴族の令嬢にダンスを申し込んでいる。公爵家の子息がこんなところにいる理由が見えない。

「ちょっとね。抜け出す機会を待ってるんだ」

 彼はとっておきの秘密を話すときみたいに、そういう顔をする。ロベルトはぎょっとした。

「何を言ってるんだよ。そんなこと、」

「あら? 悪巧みの最中だったかしら?」

 同時に顔をあげた。降ってきたのは若い娘の声で、その姿を認めるとロベルトは目をみはった。 

 こんなに美しい人が、この世に存在するなんて。

 生唾と一緒に飲み下した最初の感想がそれだった。精巧な彫刻か人形か。それにしては蠱惑的な色気がある。後れ毛さえも残さずに、丁寧に編み込まれた髪は神秘の紫で、高位の魔道士がたくさんいる王都マイアであっても、めずらしい色だった。長い睫毛に縁取られた目はぱっちりと大きく、ふっくらとした唇もまた目が離せなくなる。あまりにも凝視するのも失礼だと思い、もうすこし下へと視線をおろしたところでロベルトは我に返った。釘付けとなってしまうのも男のさがだろう。

 鼻腔を満たすのは彼女が纏っている香水だ。あまくて、やわらかくていいにおいに頭がぼうっとしてきた。気を逸らすためにロベルトは彼を見る。彼はいつもと変わりなかった。

「そんなんじゃない」

「ええ。そういうことにしておくわ。あの子も、たのしみにしていたもの」

 どうやら二人は旧知の仲のようだ。姉が弟を諭すときみたいに、彼の物言いもどことなく子どもっぽい。 

「ね、それよりも、ディアスを見なかった? 約束をしていたのよ。ダンスの。ずっと捜しているのに、見つからなくって」

「……逃げたんじゃない?」

「もう、いじわるね!」

 さっきの仕返しのつもりらしい。ロベルトはまたひとつ彼の意外な一面を知った。しかし、彼女は誰なのだろう。ただの貴人ではなさそうだが、その詮索をする前に彼女はロベルトを見た。

「いいわ。自分で捜す。また会いましょうね、ちいさな騎士さん」

 なんのことはない別れの挨拶ひとつだった。それなのに、ロベルトの心臓は速くなる。薄紅色のドレスを翻しながら去った彼女の後ろ姿を、まだ見てしまう。人の輪のなかに戻ればすぐに彼女は数人に迎え入れられて、そのうちの一人がダンスを申し込むのが見えた。背の高い男でも髪の色は赤ではなかったので、彼女が捜していた赤い悪魔とは別人だった。

「ロベルト、行こう」

「行くって、どこに?」

「だいじょうぶだよ。ソニアは味方だから」

 答えになっていない。口を尖らせるロベルトでも、彼が席を立てばそれを追った。強がっていたものの、酒に酔っていたのも本当で疲れてもいた。早くここから帰りたかったのだ。

 彼はやや早足で進んでいく。ロベルトはちょっと不安になってきた。回廊を巡回する騎士は、見習い騎士でも見逃したりはしない。それに、あの美しい人。ブレイヴは味方と言ったけれど、ロベルトは彼女のことを知らない。

 そこでロベルトは違和を感じた。先ほどの声にきき覚えはなかったか。そして、彼女の名前。

 イレスダートはじまって以来の絶世の美女であると、人々は彼女を称える。才媛なる佳人への世辞も含まれているのだと、ロベルトはそう思っていた。実際にこの目で見るまでは。

 あの人が、ソニア王女。

 ロベルトは口のなかでつぶやく。下流貴族のロベルトは先の式典のときのように、遠くからその相貌を拝むくらいがせいぜいだ。こんな機会は二度とないだろう。ロベルトの心臓はずっと早いままで、彼女の声も耳の奥に残っている。それから、におい。華やかさと清らかさを兼ね備えた香りは、きっとあの人のためだけに作られたのだろう。

 かの王女のために剣を捧げる。騎士のなかにはそれを誇りとし、そうして誉れ高き死を選ぶ者もいるのだろうか。おれは――。

 彼が急に立ち止まり、ロベルトは鼻をぶつけそうになった。回廊を抜けてたどり着いたのは白の王宮の外れにある別塔だ。随分と遠くに来てしまった。途中で彼を止めなかったことをロベルトは後悔する。しかし、ここに何があるというのか。彼はちいさな庭園を進んで、今さら引き返せないロベルトも彼を追う。すると、庭園のなかに影が見えた。ロベルトやブレイヴよりもまだちいさい影は、こちらへと向かってくる。少女は彼の名を呼び、それからその腕のなかへ飛び込む勢いだった。慌てて彼が人差し指を口に当てる。

「ごめん。すこし、おそくなって」

「いいの。きて、くれたから。それだけで、すごくうれしい」

 月の灯りと回廊の灯火では物足りなくとも、次第に目が慣れてくる。ロベルトとブレイヴよりもひとつ、ふたつほど年下だろうか。愛らしいという表現がもっとも似合う少女だった。背に流した青髪は夜の色よりも、もうすこし明るい色なのかもしれない。人懐こそうな笑みをする少女だ。しかし、その双眸はロベルトへと向かないのがちょっとさびしい。

「うん。ここなら見つからないし、きっと怒られない」

「ふふっ。あのときは、司祭さまにたくさんおこられたね」

「あれは、その……」

「でも、また会いにきてくれる?」

 彼には恋人がいる。ときどき、姿を消すのはそのためだ。いつかのロベルトの推理は当たっていた。彼らが幼なじみだということはすぐ読み取れたものの、彼と少女にはまた別の関係が見える。彼は、少女の前で跪くことはしなかったが、しかし挙止は騎士のそれだ。

 もしかしたら、この人は――。

 イレスダートの王女は二人。あの美しいソニア王女とは母のちがう妹が、この王女なのだ。白の王宮のこんな外れの箱庭で、閉じ込められている王女は公に現れない。王族とはいえ、側室の子であればこうした扱いを受けるのか。それとも、他に理由があるのか。どちらにしても彼には関係がない。この少女が、彼にとってただ一人なのだ。 

「約束する。ここじゃなくても、修道院でも。レオナがどこにいても、俺はいつだて会いに行く」

 足音を立てないように気をつけながら、ロベルトは庭園から離れて行った。会話に割って入る勇気もなければ、二人の時間の邪魔をする気にもなれなかった。ただ、胸のあたりが痛くて苦しい。ロベルトはずっと前から言葉にできなかった感情を、やっと認めた。

 ロベルトは彼が嫌いだった。幼稚な思い込みと意地だとしても、彼がロベルトにないものをたくさん持っていたからだ。

 下流貴族だとか上流貴族だとか、いつまでも拘るのはやめた。どこで生まれてどこで生きていても、けっきょくはおなじだ。ずるい人間だけが生き残る。彼はきっとそれを選ばずに、己の心のままにゆくのだろう。

 彼は最初からそうだったんだ。けれど、嫉妬は簡単には消えてくれない。おれの剣は誰のためにもない。悲しくもないのに泣きたくなった。

 ロベルトは嘆息する。酒精アルコールの混ざった吐息はただ重たかった。

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