アリア
差し出された碗を受け取らないままでいれば、無理やりに持たされた。豆だけのスープはまだあたたかく、空腹を忘れていたロベルトを人間へと戻す。左の手には黒パンが、スープに浸さず貪るようにして、あっというまに平らげる。自分が生きているのだと、実感したのはこのときになってようやくだった。
「もう、大丈夫だよ。ここは安全だから」
うたうたいのパウルはさっきからそれを繰り返している。ロベルトを元気づけているようで、本当は自分へと言いきかせているのだろう。二日前にロベルトの部隊にいたはずのパウルは、体調不良を理由に従軍から外れていたのをロベルトは知らなかった。後ろめたさがあるのか、パウルは一度もロベルトと目を合わせずにいる。
ロベルトだっておなじだ。脱走兵はもう騎士にはなれない。それなのに、ロベルトを見つけてくれた仲間は歓迎と慰めの声をする。遠い旅を経て戻った勇者さながらの扱いだ。
たしかに、ロベルトのような騎士見習いであれば、責は問われないのかもしれない。
あれは誰も予測しなかった出来事だ。イレスダートにはルドラスとの国境に城塞都市ガレリアがある。北東に位置するイドニア公国とともに、いつの時代もイレスダートを守ってきた。だから、奴らがガレリア山脈を越えて、このイレスダートの大地を踏んだそのときから、悪夢ははじまっていたのだ。そして、北の蛮族が前線をすでに突破し、さらに南下していたことも。
ロベルトの部隊は敵へと近づきすぎていた。慎重論を唱えていた指揮官はやはり正しく、しかし今は誰も彼らを裁けない。階級を持つ者たちが戦死してしまえば、罪は誰が負うのだろう。壊滅した部隊のなかで士官生の生き残りはわずかだ。輜重隊も傭兵たちも娼婦たちも、皆が犠牲となった。あそこにいて助かったのは逃げた奴だけだ。
ほとんど噛まずに流し込んだせいか、胃の底が痛んできた。最後に食事をしたのは十時間以上も前だった。
「どうしたの? どこか痛む? それなら、エリックに」
「いや、いいよ。おれのことより、あいつは……」
他に三人がいた。けれど、生きてここへとたどり着いたのはロベルトと、最初に連れ出した下級生だけだ。
「ねむってる。傷はたいしたことなかったみたいだけど、疲れていたから。あとでもう一度見に行くけど、ロベルトも」
「わかった」
パウルはまだ何かを言いたそうにしていたが、ロベルトはその声を待たずに歩き出す。どこも怪我を負ってはずなのに足がうまく動かずに、引き摺りながら進んだ。士官生の黒の制服はひどく汚れていて、顔も手も泥だらけだった。それだけではない。ロベルトの左手には血の跡がある。この手は、人を斬った手だ。
水場へと着くとロベルトは最初に手を洗った。水は貴重だから無駄には使えずに、あとは手巾を湿らせて顔を拭って、首や腕へとたどってゆく。汗や汚れは落とせても、衣服に染み込んだ血は消えてくれない。急に眩暈がして座り込んだロベルトを、誰かが天幕へと連れて行ってくれた。顔は、よく見ていない。ロベルトとそう変わりない体軀の、しかしその大人びた顔は上級生だろう。
助かったうちの一人か。天幕で横たわるロベルトを見届けると、すぐに出て行ってしまった。他に怪我人はたくさんいる。ちゃんと自分の足で立って、歩けているロベルトには構っていられないのだ。
瞼を閉じれば、夜の記憶が戻ってきた。
奴らはロベルトを子どもだと侮っていた。震えながら命乞いするところを眺めて飽きたら殺すのだ。若い二人とちがって、眇目の男がつまらなさそうにしているのをロベルトは見た。機会はただ、一度きりだった。
ロベルトが投げつけた石は男の顔にまともに命中する。眇目の男は左が見えなかった。男が怯んだその隙に奪い取った松明を武器にして、ロベルトは構える。しかし、ここで戦うつもりはない。ロベルトたちにできるのはひとつだけだ。
走れ! と。ロベルトは声をあげる。一呼吸遅れて残った下級生二人がそれに従った。奴らはロベルトを罵りながら、ものすごい速さで追ってくる。ロベルトは必死に松明を振り回し、追いつかれないように走った。
神さまがいるのなら、きっとこういうときに助けくれるはずだ。
ロベルトは敬虔なヴァルハルワ教徒ではなかった。食事の前にお祈りをしなければ、祭儀の時間に居眠りをするくらいだった。だから、神さまはロベルトなんかを救ってはくれないし、そんなに都合の良い存在じゃないことだって知っている。それでも、焼ける喉に生唾を押し込みながら走って、走って、口のなかでひたすらに祈りを唱えた。ぼくたちは正しい行いをしてこなかったかもしれませんが、けれど悪い行いはしてきませんでした。どうか、助けてください、と。
とっくに限界が来ていたのだろう。下級生の一人が追いつかれた。奴らはロベルトよりも年下の見習い騎士を殺した。最後のもう一人も何かを悟ったのか、それとも恐怖に負けたのか、その場に座り込んでしまった。
見捨てていけば、おれだけは助かる。
誰かが囁いた。いや、きっとこれはロベルト自身の声だ。醜くて浅ましい、けれども人間が生きようとするのに必要な感情が、ロベルトのなかにも、ある。
ロベルトの逡巡のあいだに奴らはとっくに追いついていた。しかし、すぐには手を出さずに、どちらが殺すかで揉めている。遊戯のひとつとでも思っているのだろうか。下級生はもう動けない。しゃくりあげる声こそはなかったが、両目からぼろぼろと涙を流し、小便まで漏らしている。奴らの嘲りと、笑う声がきこえた。
ロベルトは歯噛みした。こんなやつらに殺されるのか。おれたちは。
騎士の誇りというものを、士官学校ではきき飽きるくらいに教え込まれてきたというのに、ロベルトはそれを持ったことがなかった。ロベルトたちは見習い騎士だ。卒業まで一年と半年を残している。しかし、おなじ三年生はもう騎士の挙止をする。ロベルトにはそれができない。
そこから先の記憶は曖昧だった。けれど、ロベルトは無事だった。その意味を理解したときに、勝手に左手が震え出した。目の奥が熱くなって耳鳴りがする。胃の不快感を抑えることが間に合わず、ロベルトは嘔吐した。さっき食べたばかりの豆を全部ぶちまけてもなお止まらずに、黄色い胃液が地面に染み込んだ。意識を手離したのはそのすぐあとだ。
しばらくして、誰かの声がきこえた。人の声だったのか、それとも獣の唸りだったのか。わからない。けれども、ロベルトは一人で歩いていて、彷徨いながらもしっかと剣を握りしめていた。
そのうち前方から複数の人間が見えた。ロベルトを見つけるなり、男たちは怒鳴りつける。
人殺しになんてなりたくはなかった。だけど、殺されるのはもっと嫌だった。転がった死体をロベルトは見た。ロベルトとそう歳の変わらない少年騎士だった。
ところが死体は突然に動き出して、口から大量の血を吐きながらもロベルトの足に縋りつく。なぜ、殺したのかと、問う声は
雨の音でロベルトは目を覚ました。
天幕は綺麗に片付けられていて、不快なにおいも残っていなかった。ロベルトがそこから這い出しても他の蓑虫たちは動かない。
口のなかが気持ち悪くて仕方がなかったが水場へと行くのも面倒で、ロベルトは雨を含んで口をゆすぐ。この日も星なんて見えずに、もうずっと眺めていないような気がした。
左手の違和感はずっとつづいていて、どれだけ洗い流しても拭き取っても、赤は消えてはくれなかった。おれが、人を殺したからだ。ロベルトはつぶやく。呪いの声は耳を塞いでも終わらない。ロベルトとともに逃げた下級生たち、ロベルトが斬った男たち、それからロベルトを守ってくれた上級生が。お前が殺した。皆がロベルトを
雨は強まるばかりで、だからロベルトは自分が泣いていることもわからなかった。
叫ぶ。慟哭する。けれど、贖罪の方法なんて知らないロベルトは、ただ許しを乞う。全部、洗い流してくれ。おれの手は汚れてしまった。全然綺麗になんてならないんだ。もう、元には戻らない。
その日からロベルトはおかしくなった。
ひどい熱がつづいて、何日も寝込んだあとには
ロベルトは意味不明な言葉を繰り返す。知り合いの上級生がここにいるから捜してくれ。あのひとを助けなければいけない。そんな人はいないんだよ。うたうたいのパウルは根気強くロベルトに言う。ロベルトは大声をあげて暴れ出す。前よりもずっと凶暴で暴力的な声をして、そのうちに誰も相手にしなくなって力尽きる。
母さん。かあさん。しばらく
長いながい悪夢を見ているロベルトには朝も昼も夜も判別がつかずに、けれどもときどき夢から戻ってくる。はじめは、ロベルトみたいに誰かが泣いているのだと思った。覚えのある旋律は、うたうたいのパウルが紡いでいるのだろう。
口遊む音は頼りなくて消えてしまいそうなくらいでも、一人の声が広がっていくのがきこえた。音程も律動もまるで合っていなくて、へたくそで途切れ途切れに落ちる。ロベルトはおなじうたをきいた。あの日のような勇ましさも優しさもない。しかし、星たちは覚えている。ロベルトはここで生きている。あれは、ぼくたちのためのアリアだった。
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