後編 殷鑑遠からず

 数字が、「8」になったのだ。

 来吾は呆気にとられ、階数表示器を凝視し続けた。視界の端では、きちんと「9」のボタンが光っている。

(なぜだ。なぜ通過したんだ。きちんと、このフロアを指定したというのに)

 やはり、このエレベーターは故障しているのか。そうとしか考えられない。目的地を無視するなんて。

 ひたすら、混乱する。そのうちに、来吾は妙なことに気づいた。

 昇降かごの稼働音が、低い。下降し出して最初の頃は、確かに、甲高かった。しかし、今はかなり低くなっている。

 塾に通い始めてから今日まで、来吾はずっとこのエレベーターに乗ってきていた。だが、こんなにも低い稼働音がしたのは、今が初めてだ。それも、最初からではなく、途中から。

(まるで、何かの唸り声のようだ)

 そんな感想がふっ、と浮かぶ。本当に軽く浮かんだだけだったが、この状況下では恐怖するには十分だった。

 階数表示器の数字はすでに、「7」になっていた。

(もう、嫌だ。異常事態にもほどがある。非常ボタンを押そう。メンテナンス会社の人に、なんとかしてもらおう)

 来吾はそう考え、操作盤に右手を伸ばそうとした。

 しかし、伸ばせなかった。

 腕が、動かないのだ。外から何かに押さえつけられているわけではない。金縛りにあったかのように、そもそも力が入らないのだ。

 来吾は、右腕以外も動かそうとした。だが、駄目だった。左腕と両脚はもちろんのこと、頭に口、瞼やさらには眼球までもが動かなかった。

(ひいいっ)

 来吾は心の中で叫んだ。喉も舌も動かないから、声に出せない。

(なんだ。なんだこれは。なんだこの現象は。くそっ……)

 来吾は心の中でそう喚きながら、必死に、右腕を動かそうとし続けた。

 しばらくすると、その効果が出てきた。右腕が、とてもゆっくりとだが、持ち上がり始めたのだ。力も、入れることができている。

 だが今度は、抜けなくなった。脱力しようとしても、入りっぱなしなのだ。

(……妙だ)

 力を、入れようとしても入れられないというのは、金縛りによくあることだ。だが、いったん入ると、今度は抜こうとしても抜けないというのは、どういうことなのか。

(本当は、金縛りじゃないんじゃあ……いや、でも、体が思うように動かないのは事実だし……)

 そこまで考えたところで、来吾はある事態に気づいた。

 力が、抜けていたのだ。そして今度は、最初と同じように、入れられなくなっている。持ち上がり始めていた腕は、非常に遅い速度で、下がり出していた。

(……やっとわかったぞ。この現象は、金縛りじゃない──スローモーションだ。俺の体は、思考速度に対して、はるかに遅い速度で動いているんだ)

 だからこそ、力を入れようとした後に入ったり、抜こうとした後に抜けたり、そもそも腕が動くのがかなりのろかったりしたのだ。

 しかしいったいなぜ、そのようなスローモーションになってしまっているのだ。外部から何かに押さえつけられているわけではない。

(では、内部か。自分自身に原因があるのか。……あっ、そうか)

 来吾は手を叩きたくなった。世界が、スローモーションになったわけではない。脳が、普段どおりの速度で動く世界を、スローモーションのように感じているだけなのだ。

 そう考えれば、すべて納得がいく。九階になかなか着かなかったのも。体がゆっくりとしか動かないのも。稼働音が低くなったのも。

(でも、なんでそんなことが始まったんだ? そもそも、周りの景色がスローモーションのように感じられる、なんて現象、聞いたことが……)

 来吾がそこまで考えた、次の瞬間だった。

 彼は、あることに気づいた。車にはねられたかのような衝撃が、脳天をつんざく。普段なら、大声を上げているところだ。

(人間は、大いなる危機に直面した時、辺りの景色がゆっくり動くように見える、という話を聞いたことがある……この現象も、そういうことなんじゃないだろうか?)

 この状況で危機といえば、突然死やビルの倒壊といった理不尽を除けば、一つしかない。エレベーターの落下だ。

(だからこそ、昇降かごは九階で停まらなかったんじゃないのか。下降時特有の、気持ち悪さを味わったんじゃないのか)

 このエレベーターを作った会社は、最近、誤作動やそれに伴う事故などで、何かと話題になっている。そんなところの製品だから、ロープが切れたり、緊急停止装置が作動しなかったり、といった事態が発生したのかもしれない。

 そして、エレベーターが落下して死ぬ、という事態を、頭より先に本能が察知した。そのため、スローモーションが知らないうちに発生したのではないのか。

(そうとしか考えられない)

 そう言えば、十階の途中で、大きな音がした。おそらくはその時に、エレベーターを吊り下げるロープが千切れたのだろう。

(いや。もういい)

 来吾は首を横に振りたくなった。そんな細かいことまで明らかにしている場合ではない。原因が分かったからには、早く対策を立てないと。

(でもいったいどんな。落ちるエレベーターを止めるなんて、一人では不可能だし。非常ボタンは。今さら救助を求めても間に合わん)

 では、脱出するか。しかし、どうやって。エレベーターと降りる階の二つのドアを開ける必要がある。

 それに、体はゆっくりとしか動かない。そんなことをしている間に死んでしまう。階数表示器の数字も、いつの間にやら「1」になっていた。

(ああ。もう。もう駄目だ。ちくしょう。くそ。うわあくそちくしょう。こんなところで死ぬなんて。生きたい。生きたい生きたい生。ああ。生きたかったなあ)

 次の瞬間、ひときわ大きく、鈍い音が轟き、昇降かごが激しく振動した。

 来吾の上半身が、ずるずるずる、と真下に向けてゆっくり滑り始めた。


   〈了〉

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遠い九階 吟野慶隆 @d7yGcY9i3t

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