遠い九階

吟野慶隆

前編 前途遼遠

 補習プリントに載っている問題をすべて解き終わったのは、午後九時を回った直後のことだった。

 滝西来吾(らいご)は短く溜め息を吐き、立ち上がった。用紙を持って教卓へ行き、講師に提出する。「はい、お疲れ」と言われたので、「お疲れ様です」と返事をした。

 彼は、駅前の十五階建てビルの最上階にある、高校生向けの塾にいた。本日はそこで、章末テストを受けていた。

 その成績が低ければ、帰る前に、それに応じた量の設問が載った補習プリントに取り組まなければならない。クラスで一番点数の低かった来吾は、必然的に、最も多くの出題に挑む必要があった。

 筆記用具や配布資料などをリュックサックの中にしまい、それを背負う。すでに、他の生徒は全員、課題を終えて帰宅しており、講師も控え室に戻っていて、教室には彼一人しかいなかった。

 来吾は教室を抜けると、そのまま塾からも出た。廊下を歩き、エレベーターの前に到着する。下向き矢印のボタンを押し、昇降かごが来るのを待った。

 最近、誤作動やそれに伴う事故などで、何かと話題になっているエレベーター会社のものだった。正直なところ、そんな装置に身を預けたくはない。しかし、十五階を階段で下りる労力と比較すれば、使わざるを得なかった。

(そう言えば……三時間くらい前に友達に送ったメールの返事、来てるかな?)

 そう思い、携帯電話をポケットから取り出す。しかし、その直後、落としてしまった。慌てて拾ったが、画面にひびが入っていた。

「うわあ……」

 来吾は再度、溜め息を吐いた。まったくもって、ついていない。

 ビルはすっかり古ぼけていて、廊下は全体的に薄汚く、あちこちに染みやひびがあった。どことなく、心細くなってくる。

 しばらくすると、エレベーターが到着した。中に入り、「9」のボタンを押す。塾が終わった後はいつも、九階にある自動販売機で缶ジュースを買って帰っていた。

 扉の反対側の壁に、軽く凭れかかった。ドアの横、操作盤の上に、デジタルの階数表示器があったので、ぼんやりと、それを見つめる。窓がいっさいないので、外を眺めることができないのだ。

「15」、「14」、「13」……と、一定の間隔で減っていく。甲高い稼働音が、辺りに響いていた。

 しばらくすると、「10」になった。その途端、大きな、低い音が、天井から聞こえた。だが、勉強で疲れ果てていて、顔を音のしたほうに向ける気力もない。

(階数があと一減れば、九階に到着する)

 五秒。

 十秒。

 二十秒。

 いつまで経っても、減らなかった。

 来吾はみたび溜め息を吐きたくなった。

(まったく、どうして今日は何もかも上手くいかないんだ。なぜ九階に着かない。さっきの音は、故障した時のもので、それで十階で停まったのか?)

 いや、違う。もしそうなら、エレベーターが動かなくなった時特有の、床に押さえつけられるような感覚があるはずだ。しかし、そんなものは味わっていない。よって、昇降かごは進み続けているということだ。

 では、故障しているのは階数表示器のほうか。そのうえ、運転系統もおかしくなっていて、九階で停まらず、別のフロアに向けてどんどん下降していっているとか。

(それだ。そうとしか考えられない。ちくしょう、なんて不運だ。やっぱり、あんな会社のエレベーターなんかに乗るんじゃなかった)来吾は心の中で舌打ちした。(……まあ、そういうことなら、最悪の場合でも一階に着くはずだ)

 しかし、そう上手くはいかなかった。

 停まらない。

 測ったわけではないが、すでにかなりの時間が過ぎている。下降し続けているなら、とっくに一階に着いていなければいけないはずだった。

 だが、停まらない。どんどん沈んでいっている。

(異常だ)

 どう考えても異常事態だ。なぜ、長時間下降し続けることができるんだ。

(おかしい。おかしいおかしいおかしい。物理的に説明がつかない)

 では、どう説明をつけるべきなのか。

 心霊現象、という熟語が、来吾の頭をよぎった。いや。よぎる直前で引き返し、脳裏をうろうろして離れない。

(でも……でもでも、そんな。怪談だの都市伝説だのじゃあるまいし。 だいたい、いつまでも降下し続けるエレベーター、 なんて、何というか、ありきたりというか、話として安っぽいぞ。階数表示器が故障していてシャフトに底がないのか、階数表示器は正常で九階が遠ざかっているのかは分からないが)

 少し具体的に考えてしまったのがいけなかったらしい。来吾は背中に、寒いものを感じた。ような気が、した。

(とにかく、とにかくだ。早く外に脱出しよう。もはや、手段など選んでいられるか。非常ボタンを押してやる。そうとも今は非常だとも)

 だが、来吾がそう決意した、次の瞬間だった。

 階数表示器の数字が、「9」になった。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。しばらくして、念願のフロアに到着したということを理解する。心地よい熱すら持った安心感が、来吾の体内から湧き出てきた。

(九階。九階。九階だ。ああ……ああ。よかった。本当によかった本当)来吾は心の中でそう呟いた。(はあ。まったく、そりゃそうだよな。常識的に考えて、心霊現象なんてこの世に存在するわけがない。もっと冷静であるべきだったなあ)

 外に出たら、さっさといつもの缶ジュースを買って、帰ろう。もちろん、もうエレベーターは使わない。階段で一階まで下りよう。

(それにしても、今日は嫌なことばっかりだった……テストの成績しかり、エレベーターしかり……こんな日はちょっと贅沢して、缶ではなく、ペットボトルのジュースを買ってみようかな?)

 いや、しかし、最近は懐事情が厳しく、あまりお金を使いたくない。やはりここは、缶で我慢すべきだろうか。

(でも、差額は数十円くらいしか──おい。ちょっと待て。いつになったら、扉が開く?)

 いや、それ以前に、停まる? もう、数字が「9」に変わって、だいぶ経つ。そろそろ、停まるべきだろう。

(なんだよ! またかよ! またこれかよっ!)

 来吾は泣きたくなってきた。やっと九階に辿り着いたと思ったら、それでも停まらないのか。

 絶望のせいか、なんだか気分が悪くなってきた。胸のむかつきを腹の底に抑え込み、階数表示器を睨む。

 次の瞬間、信じられないことが起こった。

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