家族

十  スマホ 3.4インチ部分


 和哉が再び倒れ、美希は少しの間、仕事を休むことになった。大輔によって書かれたSNSの日記によれば、和哉は大輔が中学生のころに一度脳梗塞で倒れている。それで、和哉は文房具の卸問屋を辞めさせられ、それ以来、ガソリンスタンドでアルバイトとして働いていた。美希はずっと倉庫で仕分けのパートをしている。

 ママがパートを増やすけれど、パパの面倒もみなきゃならないから、どこまで働けるかわからないのよ。また、教科書代みたいなことがあるんだったら、はやめにいってよねと美希は苛立ちげに口にする。美希は、大輔が入学直後に教科書代が払えないと泣きついてきたことを言っていた。大学に行っていない美希と和哉は、入学後にすぐさま高額な教科書代がかかることを知らずに、大輔からの相談の電話を受けて、あわてて金を工面していた。両親より仕送りされた五万円は、おそらく、どこかで借りてきたものであることを大輔は感づいていた。入学式後のオリエンテーションで、学部長は保護者達がいなくなった会場を見渡して、君たちの大半はここが第一志望でないかもしれないし、そもそも学ぶということに対する意欲はさほどないのかもしれない。だが、知らないってことは本当に酷な結果を招くことがあるのだと語った。学部長の話はうそではないことをさっそく知ったと大輔はSNSの日記に綴っている。

 大輔は母親に、教科書代は二年生になったときに少しかかったが、自分のアルバイト代で賄ったこと、つぎは三年になるまでは教科書代は必要にはならないはずであるし、それもアルバイト代で賄うから仕送りは必要ないと言った。子供の学習費用を無駄遣いのようにあつかう母親が腹立たしかった。仕送りもせずに、子どもに毎日働かせておいて、さらに教科書代さえ支払わないという親が情けなかった。大輔はそんな脆い支えさえ失いつつあった。

「パパはどうなの? 二回目でしょう?」

 と大輔は訊いた。

「軽い心筋梗塞だって。あぶらっこいもんばっかり、食べているからね。自業自得よ。本当にイヤになっちゃう。勝手に死んでくださいって感じ」

 はじめに和哉が脳梗塞で倒れた直後、美希は血管の詰まりにいいとされる青魚や海藻を毎日食卓に出していたが、和哉は「ストレスが一番良くないんだよ。こんな食事を続けていたら、ストレスでぶっ倒れちゃうよ」と泣き言をいい、次第にそれらに口をつけなくなっていった。和哉は結局、煙草もやめず、ガソリンスタンドでのアルバイトの帰り道に寄り道をして、好物であったケンタッキー・フライド・チキンを食べたりしていた。高校生のアルバイトたちに奢ってやって喜ばれた。あいつらがんばっているからさと自慢気に大輔に話したこともあった。根っからの、のんき者で、常に緊張感が欠いたような和哉の顔を思い浮かべて、大輔は腹立たしくなった。和哉は状況を正しく認識する能力も、それに対処する能力も決定的に欠いている。和哉がこの世界にいたら、すぐに駆逐されるはずだった。彼は内政タイプにも、戦争タイプにもなれないだろう。いきあたりばったりの行動のみで、戦略というものが持てないのだ。なんで、あいつはスナック菓子を食べるのをやめなかったんだよ。どうして、そんなに馬鹿なんだよ。大輔は母親相手にぶちまける。美希は今まで自らが率先して和哉を罵倒していたのを忘れたかのように、あんた、そんなことを言えるの、誰に育ててもらったかわかっているのと激昂しかけるが、その言い分はすでに弱くなっていることに気がついたのか、はたと黙りこむ。

「学費は大丈夫なんだよね。別に貯金してあるって聞いているけど」

「うん。それは大丈夫よ。パパもママもちゃんと、大輔のことは考えてあるんだからさ」

 大輔は夏休みにはアルバイトを入れるつもりだが、とにかく盆だけでもそっちに帰るからと叫ぶようにいった。美希は少し声音を優しくし、駅前のロータリーが工事をしていて、バス停の位置が代わったから帰ってくるときは気をつけてねと言い残して電話を切った。

 電話のあと、便所に立ち上がった大輔は窓に映る自分のすがたに足をとめた。醜悪で、まだ二十歳であるのに、すでに禿かかっている男がそこにいた。笑ってみても、口角が奇妙に鋭利にあがり、感じの良さは滲んではこない。父親にそっくりだというときの母の言葉には無念さがにじみ出ているが、母親似であっても、石ころが木くずになるようなものだ。あんな男もそれを選んだ女も救いがたい愚かな人間だ。

 首筋に浮かぶ血管を大輔は手でさする。このくだを引っこ抜き、吹き出す血を想像する。替りに入れる血がない。誰もくれやしないだろうとガラスに映る自分に話しかける。わざとらしいことはやめようやと口角を鋭利にあげて笑う。わざとらしいと思っているじぶんは弱く、脆い。わざとらしいと思いたがっているだけで、すでに狂っているのではと考える側に立つ自分もまた脆い。大輔は私のカメラを己に向けて、写真を撮る。連続して何枚も己の顔を撮ったのちに、それを友人が一人もいないSNSに投稿する。

 今日、寝るまでに篠崎から電話がかかってきたら、電話番号を売りはらう事を決意するが、あの男からの連絡はなかった。

 

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 前期のテスト期間がはじまっており、今週はスペイン語と基礎統計学の試験が予定されていた。スペイン語のテストは単語の穴埋めで、基礎統計学のテストは授業と同じサンプルを扱い平均値を出せば「可」の評価がつくと予告されていた。ふたつのテストは毎日、真面目に授業に出席していれば、特に前もって勉強をしておく必要がない、大輔好みの形式だった。

 試験期間に入ると、きまってノートを携帯電話のカメラで撮らせてくれと頼んでくる男がいた。馴れ馴れしい男で、大輔は苦手にしていたが、大輔に話しかけてくれる唯一の同級生であったし、その態度はかわいそうな子に話しかける偉い子といった風な押し付けがましさもなかったので、大輔はいつもこの男にノートを見せていた。。男がスマートフォンのカメラでノートを撮っているときに、そのTシャツかっこいいなと男の着ていたものを褒めてみた。マジかよ? だったら、今度一緒に買い物に行こうぜと男は笑った。どうせ嘘であろうし、そもそも服を買う金はないだろうと大輔は思った。ただ、就職活動が本格化するまえに友人をつくっておかねばならないことを思い出して、いいぜ。行こうよと答えた。こういう会話の積み重ねが大切なはずだった。無駄に見えるようなことを繰り返して、人と人の関係は出来上がるのだ。

 この世界において、現実社会の友人をもつ人間は情報通だった。大輔も篠崎と知り合うことによって、はじめて、皆の知らないことを教えることができた。就職活動の際に、同じ学校に友人をもたないというのは決定的に不利になる。情報をもたない人間が駆逐されていく様を大輔はこの世界で嫌というほど見てきた。

 SNSの日記によれば、大輔はどうしても東証一部上場の企業に就職を果たしたいらしい。ろくな保証を受けないまま、小さな文具の問屋メーカーを馘首になった父親をみていて、中小企業に勤める恐怖を知ったのだ。去年の卒業生の就職先には、一部上場の飲食業、運輸業、不動産業の企業がいくつか入っていた。それらは、従業員を金を持ち出す鼠のように扱う企業ばかりだったが、大輔にとって大きな問題ではなかった。中小企業ではもっとひどいことをしているにきまっていた。大きなところであれば、世間も厳しく、監視の目も向けられるが、小さなところはそれさえも期待できない。そんなところにしか勤めることができないゴミに救いの手は差し伸べられない。

 大きな会社イコールよい就職先ではないという奴は嘘つきか、現実を直視できない弱虫だと大輔はみなした。それは金があるから幸せだとは限らないとか、美人は三日で飽きるだとかいう言葉と同じ類のものだった。一度、病気になっただけで馘首になった和哉は自分の勤務先を訊かれたり、書き込む必要があった際は、一介のガソリンスタンドのアルバイトであるのに、「エネオス」とまるで自分が製油所のプラント建設に関わっている風に回答していた。和哉は他に親戚の形見分けでパナソニックの株を少しもっているのが自慢であり、会社から届く株主招集ご通知を毎年いつまでも壁に貼って愛でていた。あの背中から何も学ばないとすればただの阿呆だ。

 就職する二年後にも、震災の影響が続いていることを大輔は覚悟していた。これから先、景気など一度も良くならないこともありえた。求人は減っているであろうし、入社後の待遇もいっそう悪くなっているに違いなかった。業種も職種も選り好みはせずに、なんでも、やるつもりで大輔は一応はいた。だが、ひそかな志望として、都市プランナーを第一としているようでもあった。この世界で内政を行っていて、自分の町で人びとが平和に暮らしているのを想像しているうちに、都市プランナーという仕事に惹かれた。愚かかもしれないが、野球漫画が好きで、プロ野球を目指すのとなにが違うのか論理だって説明できる人間はいないはずだった。たとえば、東北でそういう仕事ができれば最高だった。味方によっては震災の被害にあった地域とこの世界は似通っていた。なにもかも消えてなくなったが、勤勉な市民が残っている。誰かが導いてあげれば、復興は必ず果たせる。

 大学の就職課の担当職員にそのことを相談したら、うちの学生なのかとまず訊かれた。そうだと答えると担当の女性職員は無理よ、現実を見たらと叫ばんばかりに答えた。都市プランナーになるのには最低でも一級建築士の資格か、都市工学に対する博士論文が必要だと彼女は諭した。都市開発を行う会社も、就職先としてはかなりの狭き門で、その中でも行政や建設会社、鉄道会社と折衝をしつつ、町をつくるような仕事を行う部門は東大、京大クラスの大学院を出たような人間か、学生時代にロックフェスを企画、実施するような実行力をもつ人間で占められているのよ。職員は子供に言い聞かせるような口ぶりだった。恥ずかしくなってしまったのか、怒りに駆られているのかはわからないが、尋常ではないほどに顔を赤らめ身を震わせている大輔を目の前にして気まずく思ったのか、彼女はそこではじめて、なぜ都市プランナーになりたいのかと訊いた。さすがにこの世界のことを口にするのは憚れたのか、自分の手で住み良い町を作りたかったんですと大輔はどうにか答えた。カウンセラーはそのあまりに子供染みた、真当な理由にやや虚を突かれたようだった。そうだとするととカウンセラーは言った。「たとえば、居酒屋チェーンの店員さんとか、クリーニング店の配送だとか、電線の歪みをチェックしたりする仕事だって、快適な町づくりには欠かせないでしょう」。「……」。「ごめんなさいね。わたしは学生に現実を見せるのも仕事なのよ」。いや、そういった一市民兵ではなくてですね! と大輔は椅子から飛び上がる。カウンセラーは怯えはじめていて、後ろで男性職員が立ち上がっている。ふざけ過ぎだぜ、ババア、いえ、嘘です。すみませんと意味不明瞭なことを口走りながら、大輔は就職相談室のドアを開け、外に走り去っていった。


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 何かあった日の大輔はすぐにわかる。この世界にログインするものの、せわしなくマウスを動かすだけで、具体的な指令には行き着かない。「ああ」とか「うう」とかときおり奇妙な声をあげ、貧乏ゆすりを繰り返しては、空に拳を突き上げたりする。数分か数十分経つと、大輔の中で何かがかたち作られる。ついに、ブログかSNSにその怒りがぶちまけていく。そこで、私は大輔が夢を嗤われたことを知る。

 都市計画に従事するような人間は頭の良い、立派な人であるのは大輔にも想像できた。三流大学の卒業生には見果てぬ夢といわれても仕方がないのかもしれなかった。だが、自分ほど、まじめに大学にかよっている人間は他にいないのに、その大学の職員から、いとも簡単に届かぬ目標だと決めつけられたことが何よりも頭に来ているらしかった。一般教養のハワイ史の講師は、なんで君みたいな生徒がここにいるのだと常日頃から大輔に言っていた。大輔はひとりしか出席していなかった授業でその講師と大学の惨状についてずいぶんと語り合ったこともあった。この大学の生徒は結局はセックスのことしか考えていない。たいていの奴は新聞さえ読まない。まれに真面目な性質の奴もいるが、残念ながら、彼らこそ、根っからの馬鹿だ。表面上はおとなしくしているが、妙にひねていて、自分たちより上の存在は常に嘘をついていると思い込んでいる。アメリカは月面に着陸していないし、三月の震災もユダヤ人が開発した地震兵器によって引き起こされたと頭から信じこんでしまっている。根っからのもの。治癒可能なもの。進行中のもの。いろいろといるが、ともかく全員馬鹿ばかりなのだ!

 これまで、大輔は教員たちの言うことを信じ、守ってきた。もちろん、気に食わないこともあったが、従うことが一番、損をしない合理的なやり方だと考えていた。彼らは若者に教えるのを生業としていて、そのための訓練も受けている。その恩恵に預かるのが賢いやり方なのだ。実際に、自分が偏差値三十台の商業高校から大学に行くことができたのは教師たちの言うことをよく聞いて真面目にやってきたからだと大輔は思っていた。大輔はすべり止めで地元の専門学校も受けていた。親や他の生徒は、大輔がせいぜい専門学校に進学できる程度だと思っていた。彼らの予想を大輔は覆した。大輔の大学進学は、高校のパンプレットに載せられている。その写真は大輔のSNSにもアップされている。受験での成功体験が大輔を強くしていた。就職の機会においても、自分の願いが叶わないとは言い切れない。

 それにあの女はこの世界のことを何も知らなかった。この世界におけるホワイトライオットの存在意義と、ホワイト・ライオット内での大輔の役割を知らなかった。つまり、それは何も知らないことだと言ってよい。

 大輔は平日の昼間は大学に通い、夜はスーパーマーケットでレジを打つ日々を続けていた。土日は、どちらか一日はスーパーマーケットでレジをうち、一日を休暇にあてた。休日はもちろん、平日の夜のわずかな自由時間も、すべて、この世界で過ごしていた。夢中になれば、就寝時間が遅くなることもあるが、もともと、夜には極端に弱い性質であって徹夜にいたるようなことはなかった。また、ラジオ体操をする女を相手にした朝の日課もあって、昼夜の逆転は生じずに済んでいた。

 大戦は終わったが、力の均衡は崩れたままであった。散発的に戦争が起き、町が奪われていた。同盟が分裂し、内戦が起こっていた。ホワイト・ライオットは難民を受け入れ続け、その援助を行った。大輔も町で生産されるプラクの一割を難民救助に当てることを己に課し続けた。この世界の総プラク生産を計算して、ブログで発表している男がいた。弟と二人だけの同盟を結成しているこの男は自分たちのプラクの生産量と己の同盟の順位の変動を変数として、サーバー2全体の生産量を算出するアルゴリズムを組んだのだ。彼の公表する数字によれば、会戦以来落ち込む一方であったプラク総生産高が先週、ようやく下げ止まっていた。大輔はこれは、この世界を知らぬ者であっても、もっと広く報道されてもいい数字だと受け止めた。多くの人間が集うこの世界でのこの成果は平和のありがたみと、援助と復興の関係に深い示唆を与えうるはずだった。そして、この過程に関わっている自分は、学生生活では得られない経験をしているとの自負をますます強めた。極端な話、国連で働いているのと同等の経験をしていると言ってもよかった。それをあの女は、あの大学にいる誰もが知らないでいる。何も知らないあいつらが俺という存在を測れるはずがない。

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