1-6 マザー

 塔の管轄者であり、街を制御する女をみんな、マザーと呼ぶ。本名はあるのだが誰も知らない。本人も名乗らないし、誰も知ろうとは思わない。ここは白い街、それがなんであろうと疑問に思わない。

 それに、彼女は文字通り「母親」である。特にエイプリルにとっては母親と言ってもいいだろう。彼女の人格を生み出したのはマザーだ。だが母親としての感情はなく、エイプリルも千春も単なる結果としてだけ見ている。冷たいと言う人もいるだろう。白い街は何も言わない。白い街を選んだ人は何も言わない。だからこそ、ここは幸せに包まれている。

 全ての母親は書類を机に投げ出し眼鏡を直すと、入ってきた二人の男に目をやった。一人はやさぐれた中年のような、薄笑いを浮かべる男。もう一人は針金のように細く冷たい、無表情の男。外見も内面も対照的である二人は仲が良い。あまりにもかけ離れている以上に、彼らは似ていた。犯罪者。その一点に置いて、二人は異様なほど一致していた。

 だが、マザーには関係ないことだ。彼らは自分たちの心を満たしながら、こちらの命令を聞いていればいい。マザーが望むのはそれだけだ。

「グロゼーユ。報告してちょうだい」

「あまりいい体ではなかった」

「以上?」

 グロゼーユは頷く。抑揚も感情も薄いが、そういう所をマザーは気に入っている。無駄がなく、時間を犠牲しなくていいからだ。

「わかったわ。今度はもう少し若い人にしましょう。やはりエイプリルくらい若くないとだめね」

「次の解剖は」

「近いうちに」

「わかった」

 報告は二人が頷き合った瞬間、終わった。二人を繋いでいた視線は途切れ、あっという間にお互いの存在が消える。グロゼーユはアザレに近づき、エレベーターに乗って帰る。マザーはそこに立ったまま、二人に興味を示すことなく、書類を見つめる。真っ白な紙に印字された字は雨粒に似ていた。

 マザーは瞼を下ろす。たるんだ肉が頬と溶けあう。同時に息が漏れ、静寂は少しだけ途切れた。

 白い街の人々は欠落している。みんな、みんな、何かを失っている。

 だが幸せだ。みんな笑っている。

 記憶を失ったクロは本を読み、シロと遊んでいる。猫であると信じるシロは言葉なくとも、気ままに暮らしている。アザレとグロゼーユは欲求を満たすために人を狩りにいかなくとも実験体を切り刻むことができる。ヴェルミヨンは目を失うことによって己の美を永遠にした。そして、我が子でもあるエイプリルもまた、千春という少女の記憶を請け負うことで生まれ、現実として生きている。

 全て幸せ。白い街が生み出すのはただそれだけ。平穏すぎる風がそれを証明してくれる。

 新たな住民がもうすぐ到着するだろう。幸福を手にいれるために。

 グロゼーユの解剖を経て、幸せに辿りつけるかは謎だが。その前にアザレが目玉を奪ってしまうかもしれない。二人は案外と見境がない。マザーにとってそれらも興味の中に入っていない。注目すべきは実験体である彼らたち。その彼らが生みだす結果だけが全てだ。

 さて、次に生まれ出る幸福な人を何と名づけようか。白濁する瞼にあらゆる字を浮かべる。そうしている瞬間だけ、マザーは人間と近い感性を取り戻す。

 マザーもまた、幸せであった。

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