1-5 エイプリルと千春
エイプリルは嘘をちょっぴりつくのが好きな少女だ。
学生なのだが、学校には行っていない。病弱と偽っているからだが――病院と似たような場所に通っているので、本当に些細な嘘だ。
この嘘にはルールがある。それはエイプリルにしかわからない、微妙なライン。病弱、というのは嘘に入らない。実は男である。それも嘘に入らない。いちごが嫌い。これは嘘だが、言わない。嘘は最大で五つまでと決めているからだ。それを知っている人はほとんどいない。
エイプリルは歌うのが好きで、日差しをたっぷり浴びるのが大好きだ。これは嘘じゃない。ステップを踏むたびに黒く長い髪が揺らめき、影が膨らむ。それが楽しくて、また跳ねる。
だからだろうか。猫だと思い込んでいる少女、シロと仲がいい。シロはエイプリルより随分年下だが、気ままで気まぐれな所が一致し、出会えば必ず一緒に行動した。
今日も偶然出会ったので、二人は並んで歩いた。
「シロ。愚痴を言っちゃうけど、とにかく最悪なんだ。今日はマザーと会わなきゃいけない。いちいち面倒だよなー。ワタシは元気だってのに」
シロは神妙な顔で何度も頷く。エイプリルに激しく同意しているようだ。そんなシロの顔を見て、エイプリルは嬉しそうに頷く。
「まあ、マザーはワタシじゃなくて、もう一方を気にしてるんだから仕方ないと言えばそうなんだよ。ワタシが元気なのは当たり前だし、ワタシが元気じゃないと意味がない。それくらいわかってるけど……」
シロはその続きを知っているように、やはり頷いた。あまりに懸命に頷くので、エイプリルはつい噴出してしまった。
「そうそう。それくらい、マザーは苦手って事だよ。シロもね」
シロの首は止まらない。そろそろ酔ってしまうのではと思ったところで、シロの体がふわりと倒れかかった。天使のような白い髪が揺れ、エイプリルはその頭ごとキャッチする。
「頷きすぎだよ。でもそうなんだよなー。気分悪くなるくらい苦手だ」
シロを起きあがらせると、シロはそのままどこかへ駆けだしてしまった。気まぐれなのはいつものことなので、エイプリルは大して気にしなかった。通り過ぎゆく風が長い黒髪を攫うので指を添えた。
マザーと呼ばれる人物がいるのは街の中心にそびえたつ、白く細長い塔の最上階。風力タービンよりは小さいが、毅然と街を見下ろしている。凹凸のないのっぺりとした柱のような塔は、確実に街を支配していた。ここに住まう全ての母、マザーを象徴していた。
エイプリルは足取り重く、中心へと向かう。せめて誰か一緒であれば多少紛れたかもしれないが、シロは気まぐれ、クロは家から出ない、アザレとグロゼーユは嫌な大人。ヴィルミヨンは捉えどころがなくて苦手。となると、結局は一人で行動するしかなかった。
嫌がっていても、マザーの所へは定期的に通わなくてはならない。今更億劫になっても仕方ない。エイプリルは自分にそう言い聞かせると、塔に入った。
塔の一階は広いラウンジのようになっているが、誰もいないし店もない。単なる丸い広場に草が生えた程度のソファが置いてあるのみだ。受付もなく、ぽっかりと空いたエレベーターは口のようだった。
エイプリルは磨き抜かれた大理石の床を靴を鳴らして歩き、エレベーターに乗り込むと、最上階しかないスイッチを押した。その他部屋は沢山あるはずなのだが、降りることは許されないらしく、ボタンすらない。ということはどこかに秘密の出入り口がある……と思うのだが、見つけようとは思わないし、それ以上何か思うことはない。
思うことは罪だ。考える事で罰が下る。
エイプリルには使命がある。エイプリルはこの体と心を守る役目がある。もし「彼女」に負担がかかるようなことがあっては、エイプリルは消される。マザーに会う以外、全て幸せでできた日常を壊されてしまう。それだけは嫌なので、好奇心を消して最上階へと向かう。
ベルが鳴り、扉が開く。エイプリルは慣れた足で目の前の部屋に立ち、ノックをした。
「開いてるわ」
妙に色気のある声だが、開いた先にいるのは、脂を包んだ中年女性。薄くなってきたブロンドに青い目、脂肪でたるみながらも機敏に動く、いつも通りのマザーだ。
マザーはフレームの細い眼鏡を手の甲で直すと、睨むようにエイプリルを見た。
「遅刻よ」
「悪かった」
「女の子がそんな口調をしてはだめと、何回言わせるの」
「すみませんでした」
抑揚なく、淡々と会話が進む。いつも通りなので、二人はそれを挨拶として、マザーは本題へと入る。
「調子はどう?」
「ワタシはもちろん、絶好調」
「千春の調子を聞いてるのよ、エイプリル」
「今言おうとしたんだよ。もちろん、千春の調子もいい。ワタシの中で、楽しい学園生活を送ってる夢を見てる。記憶がぶり返す事はないし、いつも通りの日常を送ってる。今日はテストだって、友人と笑ってるところさ」
「そう」
マザーは素っ気なく頷くと、カルテらしき紙に記入した。エイプリルは近くにある丸椅子に腰かけ、かたかた揺らした。
「擬似二重人格の実験は成功というところかしら」
「さあ? でも、現実を歩いてるのはワタシで、本物本体の千春が眠って夢見て幻の現実を見ている。妙は話だ」
「あなたに聞いてるんじゃない」
独り言は心の中でしろ、とエイプリルは内心毒づくがそれを口にはしない。マザーは怒ると怖いし、エイプリルは偽物の人格なのですぐに封じ込められてしまう。
「あなたは千春を守る人格のみでいればいい」
「わかってるよ。それがワタシの生まれてきた意味なんだから」
エイプリルは体を持たない。意識と人格のみでできた、擬似的な人であり、形のない存在。
その存在を持って、この体の本当の持ち主である「千春」を守っている。
千春はとある事件で心に酷い傷を負った。それは現実を生きるにはあまりにも酷で、このまま行けば心も身体も死ぬところであった。それを助けたのがマザーであり、そこで誕生したのがエイプリルだった。
エイプリルは千春の辛い記憶を請け負い、現実を生きる。千春は幸せな日常をひたすら過ごす、夢を見続ける。ある種の二重人格のようなものだ。辛い記憶は全て、もう一人の「自分」に押し付けて、本当の自分を守る。
エイプリルはそのためだけに誕生した。千春の実体験はエイプリルのものじゃない。だから、千春の記憶がいくらつらくても何の感情も浮かばない。そうした記憶防御に特化しているのだ。
「難点はやはりそこね。本当なら、本体が表であなたが裏でこっそり記憶を請け負えばよかった。今後はそこを強化していきましょう」
エイプリルは何も言わなかったが、それはつまり、エイプリルから現実を奪うことになる。つらい記憶を抱えて夢の世界で生き続ける事が、マザーの狙いなのだ……。
それは何よりも怖い。
だが、エイプリルは何も言わない。言ってしまえばそれこそ消える運命を辿ることとなる。
エイプリルは今、幸せだ。肉体を持たないただの精神体だとしても、こうして存在し、自分の意志で歩いて行動して楽しんでいる。それがたまらなく嬉しい。胸の中で眠る千春だって愛しい。幸せな夢を見続ける千春の笑顔はエイプリルを幸せにする。もう二度と、あんな思いを千春にさせたくない。
恐怖で逃げ惑う両親。捕らえられ、しかもそのまま、生きたまま目玉を抉られ、死にゆく姿……そんな事、思い出させたくない。
「わかった。今日はもういいわ」
「え、本当?」
「近いうちに、あなたに妹ができる。欠落し、幸せになるにはあなたのタイプが一番いいみたいだから」
それはつまり、もう一人「自分」が生まれるということか。僅かに生じた不安を表に出さず、エイプリルは悪戯じみた笑顔を浮かべてみせた。意味などないが。
「楽しみにしてる」
エイプリルは嘘をついた。
今まで沢山嘘をついてきた。嘘は五つまでなんていうのも嘘。嘘つきだから、笑ってごまかして、千春を守る。会ったこともない、自分の主である少女を。本当のエイプリル――千春を。
エイプリルは立ち上がり、背を向けると、エレベーターのスイッチを押そうと指を伸ばした。すると、扉は勝手に開いた。タイミングがいいと思ったのも束の間、見慣れ男が見えた。
「アザレ!」
エイプリルは見上げて、くたびれた中年にも見える男を睨んだ。
「おうおう、エイプリル。大変だなあ、今日も検診か?」
「おかげさまで超元気さ」
後ろからもう一人、影の薄い青年が出てきた。水のような青い瞳に流れるような薄墨の髪。細身の体と無愛想な顔はよく合っているが、冷たい印象しかない。グロゼーユとアザレ。二人は面白いほど、対照的だ。
グロゼーユは特に挨拶なく、ただ目配せるとエイプリルを通り過ぎ、マザーへと向かった。
「どーなんだよ、解体ってやつ」
エイプリルはグロゼーユの背を追いながらも、目をアザレに向けた。アザレは赤茶けたレンガみたいな髪は不潔に見えるが、目だけはきれいな色をしている。
「さあな。俺の管轄じゃねえし。ただ、いい目玉を貰った」
「それはよかったね。……よくもそんな事、ワタシの前で言えるよ」
「でも、実際はお前の記憶じゃないし、お前自身何にも思ってないんだろ。もう一人のお前が知れば、ダメージになるだろうけどな」
「いくらダメージがないっていっても、ワタシが全部記憶を持ってるんだ。ワタシだって吐き気ぐらい覚える。アザレの、そういう無神経な所が死ぬほど嫌いだ」
「そいつは悪かった」
などと、微塵も思ってない様子で歯を見せた。エイプリルは途端に気分が悪くなり、その場から去った。アザレもグロゼーユもマザーも声はかけなかった。
白い街に戻り、白い空を見上げる。耳を澄ますと、風力タービンの音がした。
エイプリルは目を瞑りながら、ゆらりゆらりと記憶を漂う。
「千春の目玉を抉った犯人はお前だろーっての。しかもさ、そのまま千春の前で殺して……。トラウマにならない方がおかしいっつーの!」
誰に言うわけでもなく、つぶやく。そんな記憶を持っていても、覚えていてもトラウマもなければ発狂もしない。自分であって他人である記憶は不快だが、今が消えるよりは随分とましだし、おかげで生まれる事ができた。
「感謝するさ。狂っていても」
だが生誕を喜んでいいのだろうか。生まれなければ何も知らずにいれたかもしれない。その方が幸せなのかもしれない。
それは例えば――全ての記憶を手放したクロのように。あるいは、そんなクロと共にいる、全てを覚えているシロのように。
みんな欠けている。不完全で、不健康で、幸せだ。
「ワタシは、幸せ」
口に出すと、声は白い街に溶けた。
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