1-4 グロゼーユ
消毒の匂いが鼻をつく。慣れているはずなのに、思い出すかのように鼻腔を突く。
グロゼーユは頭を軽く振ると、ナイフを置いた。銀色の細身のナイフにはべっとりと血がついている。グロゼーユの指や腕にも点々と滴っていた。グロゼーユの手は節がなく、細く長い、ナイフに似ている。
血の臭いは苦手だ。吐き気しか覚えない。それでもやらなくてはならない……やりたくてたまらない。渇望する自分がここにいる。飢えた心がもがいている。
グロゼーユは水の代わりに酒を舐め、喉に染み込ませるようにじっくり流しこんだ。すると血の臭いは薄れ、代わりにアルコールの匂いが部屋に広がり、絡まった糸がほどけるように緊張もほどける。
グロゼーユは切るという行為が大好きだ。人の肌をぷつりと刺す瞬間がたまらなく好きだ。風船を割るように、刃を入れた瞬間裂ける皮膚や肉は快感そのものだ。皮膚には美学がある。滑らかな曲線と油分と水分のバランス、産毛、皮膚そのものの模様。それらが引き裂かれ、ぱつんと切り込みを入れると、背筋を舐められたような歓喜がせり上がる。
だが、その後すぐに溢れる血が大嫌いだ。色もだが、どろりとした液体というところも臭いも何もかも嫌いだ。快感は数秒も立たず消えてしまう。
だから何度も何度も、一瞬の快楽のために人を切り続けた。
白い街に来るまでは、この欲求は犯罪という名の元で行われるしかなかった。肉に飢える獣のように夜をさまよい、家出した少女や浮浪者、天涯孤独であろうものを見つけては切り刻んだ。こうして、グロゼーユは見事な犯罪者となった。
グロゼーユはこれが犯罪だとわかっていた。理解している。しかしそれを超えるのは皮膚を切る快楽……一般的な性欲と変わらないそれが思考を支配する。理解とそれを実行しない、はまるで別だ。グロゼーユは理解という言葉はわかっていても、理解そのものを理解していなかった。いっそ、誰か、この欲望を受け入れて差し出してくれればいいのに……そんなことを思っていたある日だった。
アザレという男が現れた。
年齢はグロゼーユと対して変わらないだろう。二十代後半……三十代前半くらいだろう。背丈は長身、肩幅は広い。細身で華奢なグロゼーユとはまるで反対だ。にやけた口元、赤みがかった紫色の瞳が飢えたように脂っこく光る様は獣そのものに見えた。
彼は異様なほど人懐っこい人だった。初対面にも関わらず、ぺらぺらと自分の事を言った。生きた人の目玉が好きな事、生きたままくり抜かないと意味がない事、それはどうしても犯罪になってしまう事、でも止められない事、犯罪と理解しているのにだからといって深い意味で理解していない事。軽率に話す様はグロゼーユの苦手な部類だが、彼の性質はグロゼーユそのものだった。単純に言えば、共通の趣味を持つ共が現れたと言っていい。
そんな彼に誘われて来たのがこの白い街だった。
到着後、依頼が来た。人間を解体してほしいとの要望だ。この街はとある実験を繰り返している。そのためには手術できる人間が欲しいとの事だった。
グロゼーユが望まずとも、次から次へと肉体が運ばれてきた。決まった部位のみだが、好きなだけ斬り刻める幸せといったら、何と表現すればいいのだろう。切る以外に心が動かないグロゼーユだったが、自然と笑みが浮かんでしまった。身体中が歓喜で満ち溢れた。今なら神に祈ってもいいほどだ。
白い街は飽きない。ただ白い世界だけだが、確かな幸せが存在する。外の街にはない、歪んだ幸せに覆われている。
そして今日も依頼がやってきた。新鮮な肉体だ。いつもは皮膚だけだが、今回は目玉も抉った。解体の前に連絡したから、そろそろ来る頃だろう。
「おおい、グロゼーユ」
呑気な声に顔を上げる。アザレが扉を開けて入ってきた。ノックはない。グロゼーユはアザレをねめつけると、下から上へと視線でなぞった。苛立っているわけではなく、癖だった。以前、アザレにやめろと言われたが癖というものはそう簡単に直せるものではない。
「いいのが入ったって聞いたけど?」
「ああ。お前の好きそうな色だと思って。この肉体は破棄されるから、その前にと思って連絡した」
グロゼーユは無愛想に答えると、たった今摘出したばかりの目玉が入ったホルマリンの瓶を放り投げた。アザレは慌てて両手を広げ、それをキャッチした。その顔はすぐに満面となる。グロゼーユも思わず口の端をつり上げた。
「ターコイズ色の目。欲しがってただろ?」
「おお……! 本当にターコイズだ! すごい………綺麗だ」
アザレはしきりに「すごい」を連呼し、瞳を輝かせる。それなりの年齢だろうに、この時ばかりは少年の顔になる。普段はくたびれた中年にも見えるのに。
「ありがとな。早速、コレクションに入れよう」
「どうぞ。目は不要な部分らしいからな。捨てるのも勿体ないし、貰ってくれるとありがたい」
「そうか。じゃあ、次はカナリア色の目が入ったら教えてくれ」
「カナリア……随分と難しい色だな。あんまりどころか、ほとんど見た事ない」
「俺も。でも、この街ならいつか入荷しそうだな。珍しい瞳の色といったら、本当はシロの目が欲しいんだが、クロの奴が睨むからなあ……。中々、コレクションが埋まらない」
言って、アザレは肩をすくめる。実はこの場は凄惨な現状なのだが、彼は死体ではなく酒瓶を指さした。
「飲みながら解体か?」
「血の臭いは嫌いだ。アルコールで誤魔化しながらじゃないと、長く解体できない」
「難儀だな」
アザレは苦笑したが、それだけだった。
「臭い消しのためだけの酒もつまらん。相手がいない酒もつまらん。アザレ、この後は暇か」
「そうこなくちゃな。もちろん、暇さ。俺はいつだって暇」
今度はグロゼーユが肩をすくめる番だ。
「その前に、マザーに報告しなくちゃいけない。付き合ってくれるか、アザレ」
「もちろん、とは言い難いけど、さっさと済ませろよ。俺はあのおばちゃんが苦手なんだ」
「了解」
グロゼーユは手袋をはずすと、わずかに残る酒を飲みほした。血の臭いは消毒され、甘ったるい酒の匂いに変わる。ようやく心が晴れてきた。
二人は何も言わず外に出る。白い街は今日も穏やかに、風だけを紡いでいる。
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