2章 maria
2-1 マリア
風力タービンは今日も規則正しい。送られる風は漂い、時間を、匂いを、人を運ぶ。
シロは塀に腰掛けて白い街をぐるりと眺めた。白い太陽に照らされた道は白い壁に反射し、さらに輝く。何もかも、白く塗りつぶされそうだ。
「ねえ。あなた、この街の人?」
白く埋もれる中、唯一、そこだけが色付いていた。シロは急いで顔を上げて、首を傾げた。そこにいるのは十四、五歳くらいの少女だ。シロはその少女を初めて見た。
まるで人形のように愛らしい。耳の上で二つに束ねた茶色い髪。オレンジ色のリボン。丸い瞳はハチミツのような色をしていて、おいしそう。ピンクの服も、綿菓子のようにふんわりしたレースで、少女によく似合っている。
少女はじっとシロを観察すると、にこりと笑った。人懐っこい、天使のような柔らかい笑顔だ。
「私、マリア。街に来たばかりなの」
マリアと名乗った少女はさらに笑顔を咲かせる。まるでそこだけが黄金色に輝いているようで、シロは思わず目を細めた。
「この街のこと、教えてほしいの。ねえ。あなたの名前は?」
唐突な出来事にシロはしどろもどろに手を動かし、どうしていいかわからず目を泳がせた。
シロは猫だ。猫はしゃべれない。名乗れない。どうすることもできず、シロは塀から飛び降りると急いで逃げた。後ろで少女が何か言っているが、シロは聞こえないふりをした。
なりふり構わず走っていると、何かにぶつかった。目の前が一瞬スパークし、意識も感情もごちゃまぜにひっくり返った。身体が倒れそうになると、大きな手がシロを支えてくれた。
「シロ? 何をしてるんだ」
低く落ちついた声は、毎日聞いてる飼い主の声。それがクロだと認識すると急いですがった。理由もわからず抱きつくシロを、クロは優しく抱き上げ、赤ん坊をあやすように背中を撫でた。クロの匂いがシロを満たす。すると、心がすとんと落ち着いた。
「どうかしたのか?」
シロは身体を離すと、こくりと頷いて後ろを指す。クロも誘われるように目線を動かすと、マリアが呆れ顔で立っていた。
「もう。いきなりどっかいっちゃうんだもの」
「……君は?」
「そういうあなたは? 私はマリア。この街に来たばかりでよくわからなくて。だからその子に案内を頼もうかと思ったんだけど、逃げられたの」
マリアは少しも怒った様子もなく、ただ肩をすくめた。しかし、シロはクロの背に隠れ、こっそりと伺うだけだった。それでもマリアは気分を害した様子はなかった。
「それは悪かった。こいつは猫なんだ。だからしゃべれないし、気まぐれだ」
「猫?」
マリアは興味津津にシロを見たが、シロはひたすら頷いて、事を早く終わらせようとした。幸いといっていいのか、マリアの興味はすぐに消えた。だが、甘い色をした瞳はシロへの疑念の色が浮かんでいた。
「マリア」
白い道に細い影が浮かぶ。聞きなれた声にシロはぴくりと耳を動かし、ようやく、少しだけ顔を緩めた。クロも少し安堵した息を吐くと、少女の名を呼んだ。
「エイプリル」
黒い髪が透明な風に攫われる。エイプリルは鬱陶しそうに手で押さえ、もう片方の手ではためくスカートを押さえた。三人を見るその顔は歪んでいる。いつもなら明るいはずの顔は、今は複雑そうだった。珍しかった。
風が止み、エイプリルはため息を零した。シロとクロを見やってからマリアを見て、肩を落とした。
「マリア。勝手に出て行くなって言われてるだろ。怒られんのはワタシなんだからな」
マリアは素知らぬ顔で、如何にも愛らしいという表情を浮かべた。
「だってお姉ちゃん。これから住む場所なんだもん。自分でちゃんと確認したかったの」
「後でいくらでも案内するから。とりあえずマザーの所に帰ろう」
「エイプリル。君の知り合いか?」
クロを見上げるエイプリルはいつもより覇気がない。いつもなら快活で、少年のようなのだが。
「悪い悪い。説明しないといけないよな。こいつはマリア。引っ越してきたばかりの、ワタシの妹なんだ」
「妹?」
思わずオウム返しするのも無理はない。エイプリルは端正な顔立ちだが、マリアは小鹿のような丸い顔立ちをしている。顔立ちはもちろん、性格もまるで違うようだ。似ている点は見当たらない。それほどかけ離れているが、エイプリルはもう一度「妹」とつぶやいた。幾分か、悲しげな様子で。口の端からちらちらと、儚い言葉が零れた。
「ワタシにとって……っていう意味かな……。同族っていう意味の方が近いかも」
白い街に住む人は何も知らない。知らないからこそ幸福に満たされている。
クロはエイプリルの事情を知らない。エイプリルが仮初の人格であり、千春という基盤があるという事実を知らない。なのでそれ以上説明できず、エイプリルは黙った。クロもそれ以上聞かず、沈黙が流れ始めるが長くは続かなかった。
「お姉ちゃん。早く次に行こうよ」
二人に興味を失ったマリアはエイプリルの腕を引く。エイプリルは軽く頷くと、何も言わずに踵を返した。その横顔は青白く、くちびるは本当に僅かであったが震えていた。シロにはそう見えたが、瞼をそっと落として、それを忘れた。
二人の少女が風のように駆け抜けるのをシロとクロは眺め、やがて二人も踵を返して家路へと向かった。
ここは白い街。何もかもが白く、白く、欠落している。
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