森の使者の憂鬱③

 大猪ジャイアントボアの解体を順調に終え、駆けつけた集落の長たちの荷馬車3台に肉を積み上げては集落へ送り出し、3往復目の出発を見送ったところでようやく作業は完了した。

 完全に陽は沈んでしまい、相変わらず暑い雲が覆う空からは遠雷が聞こえ始めていた。



「なんとか今日中に戻れそうだな、っと」



 荷馬車を曳く馬の糞をスコップで掬って回収用の荷台に積み込みながら、威焔が期待を込めた言葉を口にした。

 スコップを木桶に持ち替え、荷馬車が通った跡に木酢液を撒きながら、集落までの帰路を辿る。



「さすが、御使い様みつかいさまのお付きの方は働き者ですね。こんなに速く移動できるのは予想外でした」

「あ、ああ……」



 馬糞回収用の荷馬車の御者に話しかけられ、その隣に座るモーリは作り笑いで応じる。

 当初、モーリも作業に加わろうとしたが、威焔とマルセリーの二人から、他に示しがつかないから座っていろと御者台に追いやられてしまったのだ。

 後ろを振り返れば、威焔が作った灯りに照らされた臭い消し用の木酢液が入った樽と、積み上がって山になった馬糞の向こうで、威焔とマルセリー、他4人のエルフが清掃作業で汗を流している。

 マルセリーや集落のエルフたちもテキパキと作業をしているが、威焔は灯りが届かないような場所に落ちた馬糞まで目ざとく見つけ出しては素早い動きで荷台に積み上げ、乱れのない流れ作業でサクサクと作業を済ませてしまっている。

 威焔の他の5人はもっぱら木酢液を撒く作業に従事し、ほとんどスコップを握る機会がない。

 威焔自身も、馬糞が見当たらないと見るや木酢液を撒くという働きぶりで、その作業の最中にもマルセリーや集落のエルフたちと会話に興じたりしていて、余裕すら窺える。

 冗談を交えながらの作業風景に、モーリは自分だけが損をしている気分に陥ってしまう。



(いいな……私もやりたかったな……そしてもっとお近付きに…………)



 そうは思うものの、邪魔者・・・のせいでモーリの出番はとうとう訪れることもなく、集落の帰路を辿り終えてしまったのだった。


 外から見えなかった集落は、結界を潜れば幾つもの松明に照らされ、集落中のエルフたちが馬のいなくなった荷馬車と建物とを往復していた。

 集落の中央にある広場には大鍋が構えられ、成人していない子どものエルフも参加して調理が進められている。


 集落内は赤煉瓦造の建物が広場を中心に立ち並んでいるが、どの建物も歴史を感じさせる外観で、壁面には蔦が這い、所々苔生しているが、建物自体には不思議と劣化した様子はない。

 ほとんどの建物に煙突が付いていて、中には肉を保存用に加工するために燻製を始めている建物もあるはずなのに、煙が出ている煙突は一本も見当たらず、匂いも広場の中央の鍋から漂うものくらい。


 モーリたち3人は、ちょっとしたお祭り騒ぎになっている広場を迂回して、仮住まいに直行した。

 入り口の扉を開けば中は灯りが点けられていて明るく、暖炉にも火が入れられていて暖かい。

 モーリとマルセリーが灰色の外套を脱いで腕に掛け、寝室の扉を開くと、室内には湯浴みと着替えの準備もされていた。

 湯浴み用のお湯には小さな黄色い花が浮かべられていて、仄かに甘い花の香りが部屋を充している。



「先に済ませちまってくれい。ぼくは外でシミ抜きしてくるからさ」



 威焔は積み重ねられたタオルの山から一枚だけ手に取ると、それだけ告げて外に出て行ってしまった。



「ちょッ……イエンちゃん! 風邪……! …………引きそうに見えないわね」



 呼び止めようとしたマルセリーは一人で納得し、くるりと身を翻してモーリに笑顔を向ける。



「じゃ、お言葉に甘えちゃいましょうか」

「は、はいッ!」



 マルセリーは直立して目を泳がせているモーリを寝室にいざないながら、自分の胸の高さほどしかないその少女を改めて眺め、記憶を掘り起こそうと試みる。

 同じエルフの森の仲間であるとはいえ、マルセリーとモーリはガバンディのやしきからの接点しかない。

 マルセリー自身、あまり長い時間を生きてはおらず、執行官としてヘルマシエに派遣されたのがおよそ200年前、それ以前は森での修行という名のしごき・・・が200年ほど。それまでは、聖地に2番目に近い集落――彼女の生育地で長の第3子として産まれ、執行官候補として白羽の矢が立つまでの約50年を過ごした。

 森の使者の修行期間がどれほどなのかマルセリーは知らないが、辿った記憶の中にはガバンディ邸で出会う以前にモーリの面影が見当たらなかったことから、モーリはマルセリーより遥かに若いと予想した。



(私にそう思わせるほど老獪な相手なら……もしそうなら、イエンちゃんに任せるしかないわね)



 そう考えた直後、出会って間もないを頼りにしている自分の思考に気付き、マルセリーは小さく苦笑いを浮かべてしまう。

 そして同時に、誰かに強く心惹かれるのに時間の長さなどあまり関係がないのだと気付き、モーリに対する親近感を強めた。



「さ、脱いで座って。背中拭いてあげるから」

「あ、いえ、その……私が先に……」

「そうね。モリちゃんが済んだら、私の背中をお願いしようかしら?」

「ひゃいッ!」



 いつになく緊張して、これまで見せたことがないモーリの反応をいちいち可愛らしいと感じながら、マルセリーはオーゲルのことを思い出していた。

 ガバンディに嬲り殺される運命に捕らわれてしまった姉弟、その弟。

 姉であるサリィの献身によって守られていたオーゲルも、弟子にと押し付けられたその日、身を清めさせるために湯浴みさせようとして、モーリと同じように反応してみせてくれた。

 愛弟子であるサリィの弟としか見ていなかった彼に、一個の人に対する情が芽生えたのはその時だったと、記憶を振り返ったマルセリーは気付いた。

 その気付き一つでモーリの見え方が変わり、不思議なものだと感じ入る。


 服を脱ぎ終えて椅子に腰掛けたモーリの素肌は白くきめ細やかで、溢れる若さが輝いている――が、その肌に刻まれた大小の傷跡は、彼女のこれまでの歩みの過酷さを如実に物語ってもいた。

 矢傷、切り傷、獣の牙の跡……火傷のような爛れた傷跡もある。

 その一つ一つを指でそっとなぞると、モーリは気恥しそうに身をよじり、キュッと結ばれた唇の奥から上ずった声を漏らす。



「あの、おね……マルセリー様……ひゃんッ!」

「モリちゃんもたくさん頑張ってきたのね……」

「へ……? いえいえ、そんな! 私なんて……あれ? あ、すみません……ごめんなさい……あれ? なん……で……?」



 モーリの小さな肩が震え出し、流れ落ちる涙がはたはたと脚を打つ。

 唐突に起きた出来事にモーリは狼狽し、止め処なく溢れる滴を押し留めようと、両手で顔を覆ってしまった。

 紡ごうとした言葉は言葉にならず、意図せず漏れ出す声を押し殺そうとする。


 その時、短く切り整えられた髪を温かい手が一つ撫でた。

 労るような手の感触に、モーリの涙腺も、喉も、これまで抑え込んできた想いを、堰を切ったように吐き出し始める。



「いいのよ。今日も一日お疲れ様」



 そう声をかけ、もう一度髪を撫でて、マルセリーはモーリの背中を丁寧に拭う。

 彼女にとって大切なことを気付かせてくれた感謝と、小さな少女への労りを込めて。





―――




「ん。さすがに外は寒いな!」



 血で汚れた服の洗濯を終え、外に出た威焔は唸った。


 威焔がいる場所は、集落中央の広場からほど近い建物の前。

 水汲み場と洗濯場を兼ねるその建物は水事場すいじばと呼ばれ、例に漏れず丁寧に匂い対策が施されている。

 入り口からすぐの部屋は水汲み場、井戸ではなくポンプが設置され、その奥の部屋は洗濯場になっている。

 洗濯場は排水が出る端から浄化される仕組みになっていて、洗い場の足場は粗目の石が隙間なく敷き詰められ、排水が部屋の一点に集約されるように緩やかな傾斜が設けられる。

 そうして集められた排水は、水とその他の成分に分離され、水は地下に還元、除去物は集積用の穴に吸い込まれて行く。

 洗濯物の乾燥も洗い場で完結できるようにと、共用のタオルや大小の乾燥装置が部屋の隅に設置されている。



「エルフの魔術ってすげーな!」



 エルフの集落には必ず設置されているこの施設を初めて見た時の威焔の叫びだが、本人は今でも同じ感想を抱いている。



 その水事場で用事を済ませてしまった威焔は、もう少し時間を置いて戻った方がいいだろうかと悩んでいた。

 気の利く紳士を装って外に出たは良いが、乙女たちの談話は時間がかかるのが定石セオリーだと理解しているので、借宿に戻るタイミングが掴めずに少々後悔していたのだ。



「おや、お付きの方。こんなところでどうされました?」

「ああ、昼間の……」

「コーゼルと申します。以後お見知りおきを」

「これは丁寧に。私は威焔と申します。よろしくお願いします」



 声をかけてきたのは、大猪まで案内を買って出てくれた戦士だった。

 討伐の際の印象が良かったのか、他のエルフと違い・・・・・・・・威焔に気さくに話しかける。



「私も最初はオーガ風情と侮っていましたが、イエン殿の戦い振りを見てしまっては、己の見る目のなさを恥じるしかありません。これまでの無礼の数々、どうかお許しく」

「ストーップ! ダメですよ頭なんか下げちゃ! コーゼル様の立場が悪くなるんですから」



 食い下がるコーゼルをどうにか説得した威焔だったが、彼の言葉に、威焔に対するエルフの森での評価と対応が語られている。

 長命種であるエルフには、今は遠いオーガについての知識も蓄えられ、知識として広く共有されている。

 野蛮で品はなく、知性も低い下劣なケダモノ。

 それがエルフの森で共有されているオーガの評価だ。

 そうした背景は森に入る前にマルセリーから威焔に対して説明されていたが、実際に森に足を踏み入れて以降、威焔が徹底して丁寧に振る舞っても、それがマルセリーに対する評価にこそなれ、威焔への評価が高まることも、対応が良くなることもなかった。

 威焔自身がそれを気にしたことはなかったが、そうした対応を目にするマルセリーが怒りで感情を凍らせてしまい刺々とげとげしい空気を放つので、エルフの集落ではなるべくエルフと関わらないようにしていたのだ。

 補給と休息のために集落に立ち寄らなければならない都合上、3人にとって頭の痛い問題になっている。



(冷遇に関しちゃモーリから受ける扱いもあんまり変わらんのだけどな……途中から理由は変わったんだろうけど。青春っていいよな!)



 などと、威焔は自分が受ける扱いについて全く気にしていなかった。

 暴力を振るわれるわけでもなく、ベッドで寝れるし、食事も出てくる。

 自分を見下す視線や浴びせられる罵声は、自分に対してではなく、彼らの頭の中のオーガに向けられたものだと理解していた。

 威焔はこの世界でオーガを目にしたことがないので、そういう評価も受ける種族なのだと受け止めることしかできない。

 そして、森のエルフとは概ねそういう人種で構成されているのだと思っていた。

 なので、威焔にとってコーゼルの変化は、闇中に光明が射したように感じられていた。



「ちゃんと実力示せば見方は変えられると教えてくれたので、ぼくがお礼を言いたいくらいなんです。無いに越したことはないんですが、もしもまた一緒に狩りに出ることがあれば、コーゼル様のような戦士を他に数人連れてきてください」

「……承知しました」



 不承不承ではあれ、コーゼルは頷いた。

 エルフは気高い種族でもあり、聡明な森の賢者であると自負しているし、そのようであれと教育される。

 だからこそ、先入観に囚われて愚かな判断をしてしまったことをコーゼルは恥じていた。

 そして、自分同様に愚かな判断をし続けている同胞の目を覚まさせねばならぬと意気込んでもいた。

 しかし、その方法は思い浮かばず、その時までずっと思い悩んでいたのだ。

 威焔たちの知らぬところで、コーゼルは集落の者たち数人に、威焔の戦士としての力と振る舞いとについて訴えていたが、返ってきた言葉は押し並べて「さすがは御使い様の客人が従えたオーガだ」と、威焔本人ではなく、マルセリーの評価を上げることにしか繋がらなかった。

 威焔とマルセリーの旅の目的はマルセリーの免罪にあるので、2人にとっては本来歓迎すべきことなのだが、当事者であるマルセリーも、それを知らないコーゼルも、納得していない。



「もしもその機会に恵まれましたなら、森に誓って必ずやイエン殿のお力になりましょう」



 威焔に真っ直ぐ向けられたコーゼルの瞳には、固い決意が表れていた。

 その視線を受け止め、威焔が礼の言葉を伝えた時、俄かに集落が異質な騒がしさに染まり始めた。

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