森の使者の憂鬱②

 折れ砕けた木々が散乱する、大猪ジャイアントボアが作り出した道。

 ものの5分も走れば見えてきた行き止まりには、やや薄まった暗い瘴気の外側に白い煙を立ち昇らせる大猪の巨体が横たわっていた。

 先行したマルセリーの姿はなかったが、モーリと、同伴のエルフの戦士の二人は、走っていた速度を落とし、徒歩で恐る恐る大猪に近付く。

 白い雪に着いた大猪の足跡は途中で途切れ、その向こうには大猪の巨体が地を滑ってできたことを容易に想像させる剥き出しの土の道と、その両脇に飛び散った小さな赤い染み。

 呼吸している様子もなく、ピクリとも動かない大猪に触れる距離まで近付くが、外傷らしい外傷が見当たらないことに、モーリと戦士は驚いている。

 瘴気から保護するために手袋は着けたまま、大猪の腰の辺りで、矢を弾いた毛並に触れれば鋼のような硬さが手に伝わり、その下の皮膚もまた体毛と同じくらいの硬さを感じさせる。

 モーリは試しにナイフを突き立ててみるが、勢いよく突き刺そうとすれば弾かれるものの、じっくり押し込めばナイフの刃は皮を裂いて肉に沈んで行く。

 エルフの使者になる教育の中で、大猪との戦闘の手ほどきとして数多の槍で対処するよう教えられていたモーリは、ここでその理由に納得した。

 その様子を隣で見ていた戦士も、神妙な顔で頷いている。



「押し貫くことは可能なのですね」


「……そうらしい。長殿には後で私からも説明しますが、次からは槍で対処するよう伝えてください。そのための備えも必要になるでしょう」


「承知しました」



 モーリはナイフを手入れ用の布で拭って鞘に納め、大猪の正面まで回ると、驚きに目を見開いた。

 岩を打ち砕いてなお無傷であるとされる大猪の頑健な額に、黒い矢のようなものが刺さったのは従前に見ていたが、それは威焔が愛刀と呼んで大事にしていた反り身で片刃の剣であった。

 それが投擲された当時、どれほど深く刺さったのかは木々に遮られて見えなかったが、眼前のそれは鍔元までを深く大猪の額に埋め込み、剣を中心として樹状に走る火傷の跡からは白い湯気が立ち昇っている。

 剣が刺さった箇所からは血が湧き出し、地面に滴ってじわじわと血溜まりを広げつつあった。

 大猪の紅かった瞳は見開かれ、白く濁っている。



「初見で肉を潰さずに仕留めたことを褒めてくれてもいいんだぜ、御使みつかい様?」



 モーリと戦士の二人が、声のした方向に振り向くと、威焔が先行して姿が見えなくなっていたマルセリーと一緒に立っていた。

 その表情はどこか誇らしげで、言葉通り褒められることを待っているように見える。

 絶命している大猪の外傷の少なさもだが、彼の出で立ちもまた不自然なほど乱れが少なく、纏った防寒着に僅かに点々と血痕が付いている程度でしかない。



「どんな魔法を使ったんだ……」



 戦士が驚愕のあまり疑問の声をこぼす。

 信じられないという感情が張り付いた戦士の表情には恐怖すら見て取れ、その額には汗が噴き出し、体はわなわなと震えている。



「使った魔法は雷撃だけかな。衝突の直前に至近距離で放ったから、ぼくも衝撃で吹き飛んじゃってさ。まあ、でも、お陰で潰れずに済んだから一石二鳥だったよね!」



 そう言って威焔はワハハと笑って見せるが、他の誰一人として笑える者などいない。

 モーリも言葉を失って立ち尽くすしかなかった。


 モーリと戦士の沈黙を破ったのは、今回もマルセリーだった。

 ゴッと派手な音を立てて威焔の背中を蹴り飛ばし、褒めるでなく怒鳴りつけたのだ。



「心配したのよ! もっと自分も大事にしてよ!」


「だからさっきも謝っ……あいたー!」



 不平を唱えた威焔の頭に、マルセリーの拳が落とされる。

 その瞬間、モーリの胸は晴れた気がしたが、それもすぐに曇ってしまった。

 マルセリーの目に涙が浮かんでいるのが見えてしまったからだ。



「おい、アホオーガ……そこに直れ。お姐様を泣かせるとは万死に値する」



 いつになくドスの効いた低い声がモーリから発され、瞳は怒りの色で染められてしまっている。

‪  弓を握る左手に力が込められてギリギリと音を放ち、右手は一度矢筒に仕舞われた矢を取り出すべく最短距離でその軌跡をなぞる。


 事情を知らぬ者が見れば畏怖し萎縮もしたのだろう。

 現に戦士の表情は凍りつき、目だけがおろおろと泳いでいる。

 しかし、威焔とマルセリーはきょとんとするしかなかった。



「……ん? おねえさま・・・・・?」



 マルセリーが首を傾げると、ハッとして我に返ったモーリは顔を真っ赤にして固まってしまった。



「あ、いや……その……」



 答えに窮するモーリと目が合った途端、威焔の口元がにやりと歪む。

 モーリは泣きたくなった。

 そして迂闊にも泣き出してしまった。

 ポロポロと頬を伝う涙は冷たく、狼狽する心も冷たく萎縮していく。

 込み上げる嗚咽を止めることもできずに座り込もうとしたモーリの頭に、いつの間にか近付いていた威焔の手がポンと置かれ、わしゃわしゃと短い髪をかき乱した。



「うにゃー! 触るなアホ!」


「ぶははははははは! そんな屁っ放り腰じゃ当たってやれんなあ!」



 威焔はブンブンと振り回される弓を笑いながら全て避け切り、モーリの虚をついてその背後に回ると、少し強めに背を押した。



「わにゃあ!?」

「なッ!?」



 モーリがマルセリーに跳びこむような姿勢で突っ込み、それを避けきれなかったマルセリーは雪の上に押し倒されてしまった。

 押し倒したモーリと押し倒されたマルセリーの両方がわたわたと慌てふためき、間近で目が合った直後にモーリが耳まで真っ赤に染めて固まり、つられてマルセリーも顔を真っ赤にして固まってしまう。

 その様子を一瞥した威焔は、未だに状況についてこれずにいるエルフの戦士に正面から向き合い、自身の顔の正面で両手を合わせ、砕けた表情でへこへこと頭を下げ、



「今のは見なかったってことにしてもらえませんかね旦那。いやほら、若さ故の過ちというかなんというか……ね? 立場のある身の上だと色々あるじゃないですか。頼んますよセンセー」


「あ、ああ……」


「あざーっす!」



 威焔は何も飲み込めていない戦士を勢いだけで押し切り、よくわからないまま戦士が頷いた瞬間にその両手を掴み、ブンブンと上下に振って礼を述べた。



「はい仕事しごとー! ミツカイサマは合図出してくださいねー! マルセリーは祈祷の準備しよっかー!」



 どこから声が出されたのかと思わせるほどの大声で急き立てられ、見詰め合って固まっていたモーリとマルセリーの二人は跳ねるようにして立ち上がり、それぞれ準備に取り掛かる。

 威焔と戦士は共に祈祷の準備を手伝うために、マルセリーの指示に従って動き出す。




 祈祷とは何か。

 森の民――エルフたちにとって、森とは本来、世界の全てである。

 彼らの生活は森への祈りから始まり、森への祈りで終わる。

 大いに恵みをもたらし、時に災禍で蹂躙する森は、感謝と恐怖の対象であり、信仰の対象そのものである。

 森との共存共栄は彼らエルフの唯一にして至上の命題だと言える。

 そのため、集落の最大人数や配置間隔などは厳しく定められており、採集や狩猟の調整にも細心の注意と敬意が払われる。

 こと狩猟においては、狩りの対象が森の生命であれ降って湧いた魔物であれ、畏敬の念を込めて森とその生命とに感謝の念を、災禍を招かないようにと請願を、それらの想いと願いを込めた祈りが捧げられる。

 祭祀の資格は森のエルフ全てが成人の儀までに取得するよう義務付けられており、実際に狩猟の祈祷を行う際には、最も森との対話が可能とされる官職の従事者、官職の上位者、年長者といった順に祭祀を担うこととされている。



 威焔たち3人はそうした慣習に則り、禁呪にまで精通するマルセリーが祭祀を担う形に収まっていた。

 森の使者と禁呪の執行官はどちらも長老直下の官職であり、上下の差はないが、森とのより深い対話が可能であるという一点において禁呪の執行官が優位にあると考えられている。

 なので、モーリも当然のようにマルセリーに祭祀を委ねていた。


 しかし、祈祷の準備も捧げる祈りも、それ自体は簡素なものだ。

 鮮度が命の獲物もあるため、手の込んだ祈祷は年に一度の収穫祭で、一年の恵みの全てに対し、まとめて執り行われる。

 今回は大型の魔物で瘴気を纏っていることもあり、浄化の儀式魔法を併用する必要もあって、魔方陣の準備で少々手間をかけたものとなった。


 それでも準備は十数分で整い、集落で合図を待つ長たちに狼煙で合図を出したモーリも合流し、長たちの到着を待たずに祈祷と浄化の儀式が始まる。


 冬の森の午後は短く、夜は長く冷たい。

 まして厚い雲の立ちこめる曇り空、薄暗い森が夜の闇に飲み込まれれば解体作業は困難さを増し、時間をかければかけるほど漂う血の臭いが森の獣たちを呼び寄せてしまう。

 そうした意味でも、儀式の完了が急がれた。



 祭祀を務めるマルセリーの祈りの声が響く。

 大猪を包むように描かれた魔方陣が光を帯び、地から天へと光条が放たれ、瘴気と衝突しては弾け、キラキラと煌めく。


 モーリがこの光景を目にするのはこれで7度目になるが、それでも心を奪われてしまう。

 森への祈りも忘れ、目の前の幻想的な光景――その中心で祈りを捧げるマルセリーの荘厳な後ろ姿に意識は釘付けになり、体を感動で小刻みに震えさせる。

 胸は締め付けられ、魔物だけでなく自分まで浄化されているような錯覚に陥り、熱を帯びた目頭は湧き上がる涙を押し留めようという意識すら奪い去って、溢れるままに零れ落ちるしずくが頬を伝う。



 いつしか祈りの声は止み、永遠に続けと願った煌めきもまた収まり、魔法陣は輝きを失った。

 モーリは自然に額を地に付け、白い雪で顔をそそぐと、乱暴に袖で顔を拭って解体作業へと移るのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る