⑥
再び旅館を出て、無断でマントを持ち出し、聖剣を握りしめながら僕はもう一度あの展望台のある公園に向かっていた。
いつの間に忍ばされたのか、コートのポケットに手紙が入っていた。
思う所があるのならもう一度来い、と。あの男の罠かもしれない。疑いを持ちながら、それでも僕はそれに従った。
「よお、さっきぶりだな。久守詠歌」
「はぁっ、はぁっ……」
息を切らし、階段を昇った先。慰霊碑の傍に男は立っていた。
気安そうな態度でまるで友人に対するかのように片手を上げて僕を迎える。
「そういや自己紹介がまだだったわ。俺は
帚桐悠と名乗った男が何かを取り出し、僕へと放った。反射的にそれを受け止めるとじんわりと熱が手の平に伝わって来る。
何の変哲もない、缶コーヒーだった。
「俺の奢りだ。この辺は寒いだろ、ってお前の方が良く知ってるわな」
「……ありがとう」
「律儀だねえ。俺たち、って一括りにするのは抵抗があるが教団には迷惑してるだろうに」
帚桐がもう一本のコーヒーを開け、くつくつと笑う。彼の真意は分からない、だからそれを確かめる為に来た。……それとも逃げ出した、と言い換えるべきか。
「そんな縋るような目で見んなよ。悪いけど、お前が望むような種明かしはしてやれねえぞ」
「……どういう意味だ」
「あの姐さんの話はお前の興味を引く為で、ぜーんぶお前を此処に呼び出す為の嘘でした、って訳じゃねえって事だよ」
寒空の下で冷えた手を缶コーヒーにすり合わせながら、帚桐は僕をあしらうように言った。
情けなくなる。この男には僕の内心なんて見透かされているのだ。一目で分かる程、僕は酷い面をしているのだ。
「だったらなんでッ、どうしてあの場で僕がアイリスの勇士だと言わなかった! あの人が殺したいぐらい憎んでる
「そりゃ確かめる為だ」
「確かめる……? 一体何を……」
「現状、
コーヒーに口をつけ、白い息を吐き出しながら帚桐は僕を見た。その瞳からはかつてのアイネのような狂信もユーリのような憎悪も感じられない。迷いのない澄んだ瞳だった。
「誇る訳でも大っぴらに掲げているわけでもねえが、俺は
「邪神を祀ってる教団に与して、正義の味方だとでも……?」
「勘違いすんなって。正義云々じゃねえ、弱い奴の味方な」
心外そうな表情で帚桐が訂正する。その違いなんかに興味はない。この男の信条と、僕の事を黙っていた事に何の繋がりがある。
「姐さんも言ってだろ。お前は自分と似てるって。お前さんたちの心情までは俺には分からねえが、事情は知ってる。六年前の
「……アイリスが、
この男は僕や阿桜さんとは違う。六年前、あの場に居たわけじゃない。阿桜さんから告げられた時のような真実味も、言いようのない説得力も感じない。だからどうにかしてそう言葉を絞り出す。
「神託なんだとさ。お前も知ってるアイネ・ウルタールの居た『クタニド派』の司祭が受けたもんだ」
「『クタニド派』の司祭……サエキが?」
かつてアイネを仕向け、アイリスを討とうとした男。アイネを見限り、アイリスを利用して主神オーディンを滅ぼそうとした男。……信じられるわけがない。どれだけアイネが信用を置こうと、僕にとってあの男は信用には値しなかった。
「そうそう。ああ、そういや奴は背信者として教団から名前を抹消されはしたが、今度はそれを密告したはずの『審問会』の奴がやらかしてただろう? そのおかげで『クタニド派』自体は存続してるみたいだぜ。アイネ・ウルタールが司祭代理を名乗り出たらしいからな。教団も組織としてやってく気ならもうちっとクリーンになってくれねえと雇われる側としても困っちまう」
先日のユーリとニコラの事件の事か。それを聞いて少しだけ安心する……そんな余裕すら今の僕にはない。
「あー今のお前には無駄話だったか」
話を逸らすなと視線を強めれば帚桐は肩を竦めて続けた。
「で、存続はしたものの浄化機関だった『審問会』の力が弱まったせいで解体騒動の間に他の派閥が火事場泥棒みてえに元司祭の研究成果を根こそぎ頂いた。まあ、その泥棒が今の俺の雇い主なんだが……。その元司祭の手記に残ってたのが、六年前の真実だ」
「サエキはアイリスを利用するつもりだった。僕も少しだが言葉を交わした。……あの男の言葉は信じられない」
たとえアイネの恩人で、父のように慕っていた人だとしても。アイリスに関するあの男の言葉は偽りだらけだった。
「教団の奴らは基本的に神に関する事で嘘は吐かねえ。神様が与えたもうた啓示だってんなら嘘偽りは絶対に記さない。俺も共感は出来ねえがそれは保証する、って言ってもお前には信じられねえか」
「当たり前だ……! 『審問会』のニコラは神を自分の意思で操っていた、偽りの神託を純粋な信者に与えさえしていたんだ! 信じられるはずがない!」
この男が、帚桐悠がユーリとニコラに次ぐ教団からの刺客だと考えた方が自然に思える。それだけこの短い間で教団は僕とアイリスを襲ってきたのだから。
「だったらなんでお前は此処に来た? 思う所があったからだろう? 同じ境遇の、自分に似た姐さんの言葉に嘘だと聞き流せない説得力があったからだろう?」
「……それ、は」
「理屈も根拠もなくても、お前は姐さんの言葉に何かを感じた。六年前を知っているお前たちにしか分からないシンパシーって奴じゃねえのか?」
否定の言葉が見つからない。帚桐の言う通りだった。僕と阿桜さんの共感は多分、他人には分からない。説明も出来ない。だけどそれは聞き流せない説得力があった。
「俺には分からねえが、納得は出来る。そういう事もあるんだろうよ。だからお前を呼んだんだ。お前が俺の敵か、それとも味方になるべき相手なのかどうかを確かめる為に」
「……」
「姐さんは六年前、天使を見たんだと。恋人がそいつに連れていかれるのを瓦礫に挟まれて見ている事しか出来なかったらしい」
天使……
そして僕も見たんだ。あの日、見えるはずのない
「教団は六年前の直後からあれが自然災害じゃなく異教の神話の攻撃だって事は掴んでた。そう珍しい事じゃなかったからな。それが北欧かギリシアか、はたまたインドかどっかかまでは分からなかった。だがそんな中、ただの一般人の女が一人で必死に駆けずり回ってついに実在のオカルトにまで辿り着いた」
……僕はこの六年、何をしていただろう。決まっている、逃げていた。この街を離れ、のうのうと生きて来た。アイリスとの出会いがなかったなら、今此処にはいなかった。それは五年先も十年先でも同じだ。ただ漠然と人生を送っていただけだろう。
阿桜さんと僕が似ているなんて、あまりにも思い上がった勘違い。
「戦う力も持たない奴が、それでもそこまでやったんだ。それを知っちまったら俺一人を動かす理由には十分すぎる。俺は弱い奴の味方だからな」
残ったコーヒーを飲み干し、帚桐が僕に問いかける。
「久守詠歌、お前はどっちだ?
証拠がなくともいい、理屈がなくともいい、ただ答えろとその瞳が語っていた。
「人の世界で好き勝手しやがった北欧神話の連中に怒りはあるが恨みはねえ。北欧神話にも、
僕は……どうすればいい。
阿桜さんの言葉は信じるに値すると僕の直感は告げている。
アイリスがあの月下で見せた震える姿を僕は覚えている。
教団に人生を狂わされ、死を覚悟して身を預けたユーリを僕は知っている。
誰も答えてはくれない。
「僕は……」
「――詠歌!」
名を呼ばれ、俯いた顔を上げて背後を振り返る。聞きなれた声、聞きなれない声色。息を切らしたアイリスが階段を駆け上がり、帚桐を睨みつけていた。
「アイリス……」
「っと、
帚桐は慌てた素振りも見せず、空き缶をゴミ箱へと投げ捨てる。
「何者だ?」
「お前の敵には違いねえな」
「成程、分かりやすい」
僕を見るアイリスの瞳が何があったのかと尋ねてくる。思わず視線を逸らした。
「何か吹き込まれたでもしたか。狂信者や小娘共と戦ったお前が惑わされるとは、余程口が回るようだな」
「……アイリス。君は六年前、この街で起きた災厄を知ってるのか……?」
君がやったのか、とは訊けなかった。そんな縋るような曖昧な問いかけに、アイリスは一瞬訝しげな表情を浮かべ、
「
そう言い捨てた。
その言葉だけで僕の迷いを振り切るには十分だった。
「ッ――!」
頭に血が上るのを感じる。視界が明滅し、知らず噛み締めていた唇から血が滴るのを感じる。
けれど。心は冷え切っていた。
「決まったみたいだな」
「……ああ」
マントを解き、聖剣を抜く。本来の輝きを封じられて尚、その刃は煌いていた。
「詠歌……?」
「これは返す」
いつもと同じ、薄いTシャツ姿の肩にマントを掛け、僕は足を進める。アイリスの顔を見ず、背を向けて。
「っ、待て! どういうつもりだ!」
「こいつにもそう簡単に忘れられないもんだったって事だよ」
ああ、その通りだ。どれだけ時を重ねても、消えるものじゃなかった。
心の奥底に押し込めていても、消えてはいなかった。ずっと僕の中で燻っていたものが今、燃えている。
「君は僕の意思を尊重すると言った。これが僕の選択だ……
戸惑いがある。躊躇いがある。後悔だってきっとする。それでももう迷いはなかった。
「行こう。六年前に決着をつけるとしてもそれは今じゃない」
「ま、姐さんを除け者にするわけにはいかないわな」
背を向ける僕たちにアイリスは何かを叫ぼうとしていたが、結局何も言わずに展望台から飛び降りる僕らを見送った。
「次は僕らの方から会いに行く。それが決着の時だ」
落下の直前、一瞬だけ振り返る。アイリスは俯き、その表情は窺えなかった。
ただ、その手に掴まれていた赤いマフラーが酷く眩しく見えた。
◇◆◇◆
帚桐が僕を連れて向かったのは近くのビジネスホテル。偶然にも僕が最初に取ろうとしていた場所だった。
抜身の聖剣を帚桐が用意した竹刀袋に仕舞い、向かう道すがらに帚桐が感心したように笑う。
「躊躇なく飛び降りるとか、度胸が据わってんな」
展望台の下は断崖絶壁とは言わないまでも無事で済む高さではなかった。帚桐がワイヤーのようなものを木に掛け、僕を掴んで勢いを殺したおかげで着地出来た。
「てっきり魔術でも使うのかと思ってたけど」
「あー? まあ使えなくはねえが本職じゃねえし。崇める神様もいないしな。教団とはビジネスライクな関係なんだよ」
「あんたは弱い奴の味方だと言った。ならどうして教団に力を貸す?」
弱い者の味方だなんて臆面もなく言い切ったのなら、それは譲れない信念じゃないのか。
僕は教団に味方するつもりは今もない。六年前に決着をつけたなら、彼とも敵対する事になるかもしれない。だから聞いておきたかった。
「屁理屈を捏ねるとすれば今の
帚桐は気安げに僕の背中を叩く。
「お前も荊みてえな信念は持たないこった。抜くのも解くのも厄介だぜ?」
「それは阿桜さんの事?」
「本人はそれでも本望かもだけどな。お前が自分を似ていると思うなら、そこら辺も考えときな」
恐らくそれは帚桐悠の助言だったのだろう。悪意もなく、ただ深淵を覗き込んだ先人としての忠告だったのだと、後になって思う。
しかし今の僕にはその言葉の意味を考える余裕などなかった。
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