⑤
見も知らぬ男に名前を呼ばれ、僕の警戒心が一気に強まる。
「当たりかよ。因果なもんだな」
わざとらしく男は顔を覆い、ぶつぶつと何かを呟いている。辛うじて聞こえたのは「どうしたもんかな」という困り声だ。
敵意らしきものは感じないが、それで安心出来るはずもない。僕の名を知っているのなら、思い当たるのは一つだけだ。
「あなたたちは『教団』の人間か」
「『教団』……?」
阿桜さんは僕の言葉に訝しげな表情を浮かべた。演技? いや今更隠せるとは思ってはいないだろう。本当に知らないのか……?
探り合う視線が交差する中、男が再び口を開く。ご丁寧に挙手までして。
「はい! その辺りは俺から!」
阿桜さんの冷ややかな視線に晒されながらも男は言葉を続ける。
「率直に言ってこの姐さんは『教団』とは関係なし。立場的にはお前と似たようなもんだ。たまたま深淵に踏み込んじまった一般人ってところだな」
「……なら、あなたは?」
「俺は関係あり」
短い肯定。男に対する警戒心がさらに高まる。マントの内に潜ませた手が聖剣を握る力を強める。
アイネに始まり、サエキ、ユーリ、ニコラ。半数と和解を果たしたとはいえ、その全員が一度はアイリスに敵意と悪意を持って相対した。それぞれに事情と思惑があった。ただ理解したのは天上にも地上にも
「関係ありって言ってもどっぷり漬かってるってわけじゃねえさ。あー、なんだ、雇われみたいなもんだ。そんで今はプライベート、お前の事をどうこうする気はねえよ」
「それを信じろと?」
「信じなくてもいいけど。けどだからってどうにも出来ねえだろう? お前さんの場合」
男は確信めいた口調でそう言った。まるで僕に敵対する意思がないと分かっているように。……見透かされているようで不快な気分だ。それは図星を刺された苛立ちもあるのだろう。
「……どうしてそう思うんです」
「信仰に篤い連中からすればお前は人類に対する裏切り者扱いだろうが、視点を変えれば困ってる奴を助けただけの善良な一般市民。そんな奴が有無を言わさず剣を抜いたり出来るわけねえよな?」
男の言う事全てを肯定するつもりはないが、的外れの指摘ではなかった。僕は今更巻き込まれた一般人だなんて言い訳は出来ない。僕は僕の意思でアイリスの勇士を名乗ったのだから。
「誰の味方かははっきりしてる。けど誰が敵かはまだ決まっちゃいないだろう?」
「……」
否定する事は出来なかった。けど否定する意味もない。僕は別に武勇を馳せたいわけじゃない。敵なんていないに越した事はないのだ。
「安心しろよ。今の所、俺は敵じゃねえ」
男はおどけて肩を竦めるが、それはつまり、いつ敵に回ってもおかしくないって意味じゃないか。
「詠歌君。君が何を抱えているのかは分からないけれど、きっと私たちは似てる」
警戒心を緩めない僕に対し、阿桜さんが言葉を紡ぎだす。優しい声音だった。
「ええ、僕もそう思います」
この出会いが偶然であれ仕組まれた必然であれ、僕は僅かな会話とあの祈りの時間は今まで得難いものだったと感じている。
僕がいつか立てた誓いを再確認出来た。心の中で蟠っていたものの整理する事が出来た。そのきっかけをくれたのは彼女なのだから。
だからこそ、出来るならば彼女が何者だったとしても、敵対したくはない。
「だから君が何者だったとしても、君の事情がどんなものだったとしても、まずは伝えておくよ。君が知らないだろう真実を。あなたの反応からして、彼になら話しても構わないって事でしょ?」
「んー、あんまりおすすめはしねえが、確かに知る権利はあるだろうな」
嫌に心臓が高鳴る。思考の邪魔をしてくる。何かとてつもなく嫌な予感と焦燥感が僕を襲う。
彼女から目を離せない。喉が渇く。マントの内側に差し込んだ手が汗でじっとりと濡れている。
「君は知っておくべきなんだと思う。六年前の大災害、あの災厄の原因を」
「……原、因」
怒りと
◇◆◇◆
旅館の部屋に残ったアイリスは畳に体を預け、何をするでもなく低い天井を見上げていた。
心ここにあらずと言った様子だが、ぼーっとする内にアイリスの頭も冷え、少し性急すぎたと反省していた。
「らしくもない、と言えばいいのか」
レスクヴァを前にし、気持ちが逸った。詠歌の言う通り、そこまで急ぐ必要はなかったと冷静になれば納得も出来る。だが理解できない事が一つ。
「……何故、私はああも焦っていたのだ?」
マントに関してそう不便に感じた事はない。不満があるとすれば見た目のみずぼらしさぐらいか。己の翼の現身であるマントの擦り切れた様は見ていて愉快ではない。
(急いだのはマントの修繕ではなく、鞘の製作だ。一刻も早く作らなければ、聖剣を預かったままでは落ち着かない、そう感じていた……何故だ?)
記憶を辿る。その気持ちが芽生えたのはいつからだったか、と。元々マントを仕立てられる者は探していた。以前、詠歌の前から去ったのもそれを探していたからだ。その時は見つけられずに彩華に服の見立てを頼んだ。それで満足していた。聖剣の鞘の事は頭の片隅にあっただけ。だから違う。
(地上では剣を持ち歩く事は出来ない。詠歌に言われた時は私が預かっていればいいとしか思わなかった)
くれてやった物を預かる事に不満がないではなかったが、突き返されたわけではなく、詠歌は聖剣を持つ事を良しとしていた。地上ではそういうものかとアイリスも納得した。だから違う。
(黒騎士、リシュライナとやり合った時にはむしろ余計な真似をと苛立った。勇士の自覚が芽生えたのは嬉しいが、奴は私の獲物だった)
戦闘の余波程度なら聖剣を持っていればどうにか出来る、そう考えて聖剣を返したが、その後の事を思えばあの時はむしろ渡さなかった方が面倒な事にはならなかったはずだ。だから違う。
(……いや、あの時はそうでもその後は違かった。聖剣は詠歌を選び、私を運び手とした。剣如きが私を使うなど不愉快だと思った)
単なる荷物持ち扱いが不愉快で、ならばと鞘を用意する事の優先順位が上がった……はずだ。自らの性格を思えば不思議はない。しかしアイリスは自分が出した結論に納得できない。本当にそうか、という疑問が消えない。
「いくら不愉快だったとしても、こうも焦る必要はない。……それに」
畳から体を起こし、詠歌が出ていった扉に目を向ける。あれから一時間近く経っていた。それ自体は別にいい、冬休みに入るまでは大学に通い、毎日何時間と離れているのだから。
「如何に我が勇士と言えど、
あのマントはアイリスの生命線と言ってもいい。ただでさえ地上では遅々として回復しない魔力、マントを手放せば尚の事、使い魔を生み出す事も魔力で武装する事も出来ない、今のアイリスはほとんど通常の人間と同じだ。
「何なのだ……どうしたというのだ、私は」
答える者は誰もいない、自分にすら理解できない心。勇士は戻らない。
◇◆◇◆
気が付けば僕はいつの間にか、宿まで戻って来ていた。
阿桜さんと男といくつか会話を交わし、何処かへと消える彼女たちを見送った事はぼんやりと覚えている。
汗ばんだ体にこの時期の風は酷く冷たい。宿の中に入っても体は微かに震えていた。目の前の扉を開け、部屋へと入れば体も温まるだろう。
だけど手足が動かない。延々と頭の中を回る阿桜さんの言葉が僕の体を縛っていた。
「……いつまでそこでボーっとしているつもりだ?」
僕の気配に気づいていたのか、痺れを切らしたように扉が開く。不機嫌そうな表情のアイリスが腰に手を当て、僕を見上げていた。
咄嗟に何かを言おうとして、何も言葉には出来なかった。
「……? まあいい、速く入れ。互いに頭を冷やす時間は取れただろう」
アイリスにも思う所があったのか、そんな事を口にして僕を手を引いて部屋へと招き入れる。僕はふらついた足取りのまま、部屋に入る。
「随分と冷えているな。良い時間だ、湯浴みに付き合え。此処なら狭さを言い訳には――」
「ごめん、一人で行ってくれるか」
冷たく、言葉を遮った。
「……釣れない奴め、と言いたい所だが……どうした」
僕の異常に気付いたのか、アイリスが顔を覗き込む。瞳を閉じ、顔を逸らしてそれを拒絶する。
今、彼女に顔は見せられない。今、彼女の顔を見る事は出来ない。
「……ごめん」
僕はそれしか言えなかった。
「……お前とて万全ではないのだ、あまり体を冷やすな」
片手に握りしめていたマントを取り返し、僕の肩に掛けるとアイリスはそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
僕はそれを見送る事もせず、ただ立ち尽くす。
頭の中では今も阿桜さんの言葉が延々と反響し、ぐるぐると巡っている。
『今、地上へと追放されている
阿桜巴は僕にそう言った。
『信じろとは言わねえが、お前にも思う所はあるだろう?』
男は僕にそう言った。
何故、男が言葉を濁したのかは分からない。僕が、僕こそがその
分からない。
僕には、阿桜さんの言葉を嘘だと否定する事も、聞き流す事も出来なかった。
「
……僕は目を逸らしていたのかもしれない。あの月下、震えている彼女の姿を見た時からずっと。
自他共に悪だと認める彼女の悪性とは何か、考えないようにしていたのかもしれない。
もしも彼女が六年前の災害を引き起こしたのなら、ああ、それは許されざる悪だろう。
一度考えてしまえばもう止まらない。
どうして神話に語られる英雄、シグルズが神が与えた装置だからと
それはまさしく、
聖剣を持ち、『ウルタールの猫』を斬り、思い違いをしていたんじゃないか。僕はただの人間でしかない。ただの人間と秩序を守る
「僕は……間違えてたのか……?」
分からない。もう何も分からない。
一度生まれた疑心は際限なく広がっていく。
僕はアイリスに何度も命を救われた。彼女が居なければ僕は生きてはいない。けれど、それすらも心の内に広がる染みに塗りつぶされていく。
彼女の勇士であると決めた。だけどそれはあまりにも漠然とした決意だった。信念を持たない僕の心はこうも容易く揺れ動いてしまう。
「分からない、分からないよ……久永」
自分の女々しさが嫌になる。久永は死んだ。死んだ人間にこれ以上、何を求める。何を望むっていうんだ。
ああ、でも、だけど……久永が死んだのは、その原因は……。
「あぁ……っ」
力なく、膝から崩れ落ちる。音を立ててマントが肩から外れ、畳へと落ちた。マントに爪を立てる僕の情けのない呻き声が部屋に響いて消えていく。
六年間、被り続けていた仮面が、冷静であろうと張っていた虚勢が、嘘だらけの僕が罅割れ、綻びから本当の僕が顔を出す。
何が勇士だ。アイリスを信じる事も出来ず、阿桜さんの言葉を疑う事も出来ず、一人こうして惨めに嗚咽を零す事しか出来ない僕に、そんな資格があるはずがない。
「…………でも、それでも」
どんなに惨めで、みっともない醜態を晒しても、それでも僕は確かめなければならない。
この真実だけは僕が見極めなきゃいけないんだ。
「……」
この聖剣の刃を誰に向ける事になったとしても。
勇士の名を返上しよう。今、この剣を握るのは
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