⑦
帚桐に案内されたビジネスホテルの一室に足を踏み入れた瞬間、思わず目を見張った。
カーテンで光が遮断された十畳ほどの洋室にびっしりと呪文らしき文字や魔法陣が描かれた紙が貼りつけられていた。恐らく
部屋の奥には僕たちが入って来た事にも気づいていない様子の阿桜さんががりがりと紙に何かを書き殴っていた。
「連れて来たぜ、姐さん」
「……阿桜さん」
声に反応し、ゆっくりと彼女が振り返る。狂気を感じさせる濁った瞳が一瞬垣間見えたが、僕の姿を捉えると公園で出会った時と同じ、優しげな表情を浮かべる。それが余計に彼女の異常性を際立たせていた。
「詠歌君、来てくれたのね」
「阿桜さん、僕は……」
「いいの。悠から聞いたわ。君は知らなかっただけ、それにこうして私の所に来てくれたんだもの」
僕が
「教団、悠の雇い主についても聞いたわ。君が警戒するのも無理はなかったわね。私は復讐する事だけを考えていたから、悠たちが何者なのか、このオカルトが何と呼ばれているのかにも興味がなかった」
「最初に説明しておこうと思ったんだが、訊こうともしなかったんでタイミングを逃しちまったんだよ」
最初の認識のズレはそのせいか。……分からなくはない。僕もこの聖剣、ジュワイユーズについて深くは知らない。どうして僕に扱えるのかにもあまり興味はない。ただ立ち向かう為の力であるならそれで良い。
「君は私に想像も出来ないような戦いをしてきた。……
「……僕はこの六年間、あの日を忘れたフリをして生きてきました。どれだけ悲しもうと失った人は帰って来ない。ただ、生き残った僕は死ねない、生きなきゃならないと自分に言い聞かせていた」
六年前の災厄を生き残った僕は生きなきゃいけなかった。たとえどれだけ辛くとも、久永が生きたかった今を投げ出す事は出来なかった。
だから僕は死ねないのだと、そう言い聞かせて来た。……だけど、死ぬわけにはいかないと思っていても、
「けど僕には死ねない理由だけじゃない、生きる理由が出来た。六年前に自分の手で決着をつけるという目的が出来た。真実を知った今、
六年という月日を経て、今更だと言われるかもしれない。知らないままでいたのなら、もしかしたら時間が解決してくれていたのかもしれない。たとえそうだったとしても、知ってしまった僕はもう目を逸らす事は出来ない。
「……うん、分かった。君を信じます。君と私はとても似ている。私たちの手で決着をつけましょう。復讐を果たしましょう。死んでいった人の為にも。それは生きている私たちにしか出来ない事だから」
差し出された彼女の手を執れば僕はもう逃げられない。自分の罪から逃げる事は許されない。
「改めてよろしく、詠歌君」
もう、決めた事だ。
強く阿桜さんの手を握りしめ、握手が交わされる。
それを見てパン! と仕切り直すように帚桐が手を叩いた。
「うしっ! じゃあこれで決まりだな。阿桜巴、久守詠歌! お前らに戦う意思がある限り、俺はお前らの味方だ」
「あなたは私たちじゃなく弱い人の味方でしょ。味方してくれる事に感謝はしているけど、その俺たちは固い絆で結ばれた仲間だ! みたいな顔はやめてちょうだい」
「手厳しいな、おい……」
まあその通りだけどよ、と帚桐は否定しなかった。……僕も彼に対して仲間意識を抱いてはいないが、阿桜さんは少々風当たりが強い。
彼の胡散臭さからすると仕方ないのかもしれないけれど。
「おいこら、失礼な事を考えてるだろ」
「あなたの態度に問題があるのよ。それより、詠歌君にも説明してあげて。あなたの方が得意でしょう」
「へいへい」
僕も訊いておかなければならない事がいくつかある。不満そうな表情で頭を掻きながら帚桐が口を開いた。
「姐さんには
「やっぱり
「お前にとっちゃ良い思い出はねえだろうが、
人が生み出した神への対抗手段、神話に抗う人の創り出した神話。アイリスはかつてそう言っていた。
そう考えれば帚桐が教団に味方している理由も納得がいく。彼の言う通り、僕には良い思い出はないけれど。
「聖剣を持ってるお前には邪神も応えちゃくれない。手放すってんなら話は別だが」
「悪いけど、
「だろうな。お前はそれでいいさ。俺はあくまで手を貸すだけ、因縁に決着をつけるのは本人たちじゃないとな」
教団のメンバーとして僕たちを利用しているのではないか、と疑う気持ちがないわけではない。だけど帚桐の言葉は嘘である気はしない。
恨みではなく怒り。弱者を虐げる強者への怒り……今は彼の事情を推察する時じゃない。
「お前も覚悟を決めた。後は姐さんの
「一つ、訊きたいんだけど」
「おう、何だ?」
気にかかっていた事の一つ。それを確かめなければ彼に背中は任せられない。
「この街で僕らが出会ったのは偶然か? それとも初めから知っていたのか?」
「俺たちがこの街に来たのは元々はレスクヴァっていう天上から逃げて来た人間に会う為だ。そいつなら
レスクヴァさんの言っていた先約というのは帚桐の事だったらしい。
教団からの襲撃が二度で済んでいたのは秘密主義のおかげで、僕とアイリスの所在まで掴んでいたのは神託を受けたという『クタニド派』と『審問会』という教団でも特殊な立場だった者たちだけ。
そして僕たちは偶然にもこの街に集まった……という事なのか。
「出来過ぎていると思う?」
「……少し疑い深くなっているので」
「ならこう言い換えたらどうかしら」
阿桜さんは再び瞳に復讐の炎を宿し、底冷えするような声で言った。
「これは運命だった、って」
◇◆◇◆
翌日、僕と帚桐の行動は迅速だった。
早朝の朝靄の中、音もなく部屋へと侵入する。不用心なのか、それともその習慣がないのか、鍵は掛けられていなかった。
廊下を進むと奥の部屋から物音が聴こえる。既に起きているらしい。
「……」
どうする? と帚桐が視線で問いかけて来る。僕は躊躇わず、扉を叩いた。
ガシャン! とノックの音に驚いたのか、何かが倒れる音が響く。僕たちは顔を見合わせ、帚桐は肩を竦めていた。
「……失礼します」
起きているのなら隠れる必要はない。不法侵入しておいて言う事ではないが、事を荒立てるつもりはないのだ。
「えっ、はっ? 早くない!?」
扉を開けると工具や僕には用途の分からない工芸品のような物が床に散乱し、その中心ではレスクヴァさんが目を丸くしている。
「朝早くにすみません」
「いや、まあ別に起きてたからいいんだけど……チャイムぐらい鳴らしてよ、地上では常識なんじゃないの?」
起きていると知っていればそうしていたのだけど。申し訳なさそうに頭を下げる事ぐらいしか僕には出来ない。
そんな僕の背後から帚桐が顔を出し、気安そうに片手を上げた。
「おっす、おはよーさん」
「あ、何だ君も一緒なのか。知り合いだったの?」
「昨日からな」
帚桐もレスクヴァさんとは昨日が初対面のはずだが、友人の家のように部屋に入ると散乱した物を拾い集めていく。
「それで話はまとまったの?」
レスクヴァさんもその態度を気にした風もなく、自分は椅子に座り直していた。昨日も感じたが、トールの従者をしていただけあってやはり肝の据わった、図太い神経をしている。
「あーそれなんだけどさ、レスクヴァさんよ」
「なにさ?」
「ちっとばかり、俺たちに攫われてくれない?」
食事にでも誘うような、なんて事のない口調で帚桐はそう提案する。
それに対してレスクヴァさんはたっぷりと間を置いて、はい? と首を傾げた。
「あの後、
「いや、来てないけど……ってか君はあの人の勇士なんだから知ってるでしょ?」
もっとも、帚桐と阿桜さんにレスクヴァさんの誘拐を提案したのは僕だ。発案者として彼女には事情を説明しなければならない。
「それは昨日までの話です。それに僕はこの地上の人間だ。むしろその方が自然でしょう。
「一日で随分と変わったんじゃない? 男子三日云々って諺はあった気はするけど」
「ええ、まあ……人を脅すのって初めてなので。少し緊張してるんですよ」
室内であるにも関わらず無遠慮に聖剣を取り出し、剣先を向けた僕を見てレスクヴァさんの顔が引きつる。凶器を向けられて身が竦むのはミズガルドの人も変わらないらしい。
「大人しく従ってくれれば危害は加えません。あなたには別に恨みも何もない」
あるのは必要性ぐらいのもの。巻き込む事に申し訳なさは感じるし、他の方法があればとも思う。けれど代案が思い浮かばなかった以上、迷う事はしない。
僕は僕の為に、無関係のレスクヴァさんを利用するのだ。
「従わないと言ったら」
「それでどうします? 神様に祈りでもしますか」
彼女の祈りならば或いは届くかもしれない。大勢が祈ったはずのあの日でも届かなかった願いも、神に近しい彼女ならば聞き届ける神が、
だが彼女にそれは出来ない。アイリスの脅しに祈りも怯えもせずに真っ向から反論した彼女がただの人間を相手に神に縋るはずはない。
「……やめとくわ。
降参とばかりに両手を上げ、レスクヴァさんが溜息を吐いた。抵抗されなかった事に安堵する。シグルズやニコラ程の戦闘能力は持っていなくとも、トールの従者で魔術を扱う彼女がどんな手札を隠しているかは分からなかったから。
「ご協力に感謝します、って感じか? もっとも、お前がマントを返さなけりゃ手間も迷惑も掛けずに済んだんだが。あのマント、そんな大層なもんなのか?」
「
「ご丁寧にマントを返してやった事の申し開きは?」
「言い訳するつもりはないけど」
おそらく無条件に僕を信頼してくれている阿桜さんはともかく、帚桐には伝えておいた方がいいだろう、とそう前置きして、今の僕の考えを言葉にする。
「別に僕は
思いの正負が反転したわけではない。ただ比重が変わったというだけ。
僕はアイリスに対して六年前の災厄を話題に挙げた事はなかった。騙されていたとも思っていない。むしろ裏切り者と謗られるべきは僕の方だ。
「以前、助けられた借りもまだ残ってた。あれはせめてもの謝罪の気持ちと、決別の証のつもりで返しただけだ」
「律儀なのか難儀なのかよく分からねえな」
「僕は自分が納得したいだけだ。それより早く行こう。
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