5.箱庭
「よう」
朝、教室に入ると、廊下側後方の席の石川が声をかけてきた。朝練終わりらしくトレーニングウェアから制服に着替え途中のまま、俺に近寄ってくる。
「田中、やるなあいつ」
「…………ああ、うん」
四組での出来事は学校中に拡がっていた。
〝電波系少女〟を〝いじめ〟ていた〝サッカー部〟の〝男子〟が、〝痛々しい〟行動で有名な〝女子〟の〝田中真由子〟に〝教科書でぶっ叩かれた〟挙句、いじめが発覚して〝部活一時停止〟の処分を受けた――これだけの情報量を持つ話題が、拡散しないはずがないのかもしれない。ましてや相手はサッカー部で、真由子や白石のような生徒が彼らに一撃を加えることは、いわゆるスクールカースト的に見ても一種の下剋上と言えなくもない。
「田中真由子の逆襲、って感じだな」そう言って石川は気怠げに笑う。
「……そんなんじゃないって」「冗談冗談」
教室にいる生徒たちの何人かは、言葉を交わす俺たちにそれとなく注目している。
言ってしまえば俺だって当事者の一部なのだろう。ましてやいつも真由子と一緒にいるわけだし、……今後本当の意味で復讐されたりしたらどうしようか。
「これでいい加減あの三馬鹿も懲りたと思うよ。ウチの顧問めっちゃ恐いから」
「……仕返しとかないといいんだけど」
「そん時は俺が出張ってやるさ」……こいつ本当にカッコイイなあ、ちくしょう。
自分の席に着く。真由子はまだ来ていない。夏休み以前と中身は違えど、改めて注目されることになってしまう真由子。今回に限ってはある種英雄的行為とも言えなくないし、俺があまり気にする必要もないだろうか。――などと考えていると、近づいてくるクラスメイト。
どこか躊躇いがちに、ひそひそと何か言葉を交わしながら、やってくる二人の女子生徒。
「あの~……」
文芸部を退部したというあの二人だった。
「なんというか、その……田中さんが白石さんを助けた、って、本当……?」
「ああ、本当だよ」
二人は顔を見合わせる。
「あ……っと……」
向かって右側に立っている背の低い女の子は、言葉を探すようにして、視線を迷わせる。
左側の眼鏡の女の子もばつの悪そうな顔をして、隣の友人を窺っている。
「……ごめん、なんでもない。教えてくれてありがとう」
じゃあ、と言って離れていこうとしてすぐ、立ち止まった背の低いクラスメイトは言った。
「あの……この前はごめんね」
俺に謝る義理もないだろうけれど、その素直な言葉は素直に受け取っておくことにする。
しばらくして真由子が登校してきた。何人かのクラスメイトはとても純粋に、真由子の行為を称賛していた。サッカー部の例の三人は、いじめ紛いの行為以外にもなにかと迷惑を振り撒いていたらしく、そんな彼らにお灸を据えたことはなかなかどうして正しい行いだったらしい。初めて見る光景。言い寄られる彼女は仏頂面で頷くばかり。きっと応対の仕方が分からないのだろう。三橋まで声をかけていた。二限が終わった後、「やるじゃん、まゆち」と言って何故か飴玉をふたつくれた。ひとつは真由子にあげた。
そして昼休み。言われた通りに文芸部室にやってくると、白石はいつもの席に座って待っていた。膝の上に手を置いて、かしこまったように身を縮めながら、小さく笑っている。
「くひ……来てくれて、あり、がとう……まあ、座って……ひひっ」
促されるまま、白石の真正面に真由子、その右隣の席に俺が座る。俺たちが座ったのを前髪の隙間からちらりと確認して、彼女は机の中から何かを取り出した。
「……くくっ、ねぇ、これを、見て」
白石は取り出したそれを、目の前に掲げてみせる。
「……鍵?」
それは、結び紐のついた、特に何の変哲もない鍵だった。
「くひ……そう、鍵。この鍵は、この文芸部に代々伝わる、運命の鍵。空へと続く、箱庭への鍵……」
「……」
また電波なことを言い出した。文脈がよく分からない。
「わたしは、出会うべくしてこの鍵と出会った……そうだよね、ふふ……」
目の前の鍵に語りかけるように、白石は言う。
「……それで、私たちを呼び出した理由は?」真由子が尋ねた。彼女も、白石の言っている言葉の意味を理解しあぐねているようだった。
「くひ……それじゃあ、行きましょう」白石がゆっくりと立ち上がる。
「行く……って、どこに?」
「ふふ……秘密の場所。楽園、箱庭、空に最も近い場所……」
白石に導かれるまま、昇降口で靴に履き替えて、駐輪場のある南校舎東側へ向かって歩いていく。
「何をしようとしているんだ……?」俺は前を歩く白石に尋ねる。
「くく……焦らなくても、もうすぐに分かるよ……」
言われるがまま、辿り着いたのは校舎東側の端にある非常階段だった。白石は一度こちらに振り返った後、その階段を登っていく。
「……ここって確か、最上階突き当たりには鉄柵の扉があるよな?」
「……鍵って、もしかして」
そんなやり取りを真由子としながら、階段を登っていく。昼休み、こんなところにやってくるような生徒はいない。三人の足音だけがリズムよく響く。
突き当たりに辿り着く。最上階は鉄柵を囲むようにコンクリートの壁が階段を覆っていて、少しだけ空気の涼しい日陰になっている。
「ふふ……くひひ……」
白石は鉄柵に取り付けられた南京錠に、先ほど俺たちに見せた鍵を差し込む。
カチャリ、と金属の音がして、きぃ……と扉が開かれる。
「さあ……ふふ、行きましょう……?」
白石はどこか楽しげに、俺たちを誘う。最後の折り返し階段の半分ほどで頭上を覆っていたコンクリートはなくなり、太陽の暖かさが皮膚に触れた。
登りきって、屋上に足を踏み入れる。そこから見える風景は――――
壮観だった。
俺と真由子は、立ち尽くしてしまった。
校舎最上階の眺めなんて目じゃないくらい、圧倒的だった。たった一階層分違うだけで、ここまで変わるものなのか。
立ち入り禁止の屋上に、校舎を囲むフェンスなどは取り付けられていない。せいぜい縁に沿って、膝上くらいの高さの段差があるだけ。だから、その景色はなんの遮蔽物もなしに、三六○度、この視界に直に飛び込んでくる。
遠く、東西にどこまでも伸びる街並み。高く伸びる煙突、鉄塔。その先の水平線は煌いて。そこから西――今立っているこの場所から真っ直ぐに伸びていく校舎の先に視線を向ければ、そこにはなだらかに標高の高くなっていく土地の輪郭の上に広がる住宅街。北にはたくさんの緑、ゴルフ場、そして山並み。自分たちの真後ろ、東にまで視線を流せば、ふたたび緩やかに南の市街地へと標高が下がっていく。西側に比べれば自然の多い風景。
「……すごい、こんな、こんなところが」
隣の真由子が声を漏らす。その瞳は驚きと喜びできらきらと輝いていた。
「ちょっとこれ、やばいな、言葉が出てこない」
ポケットに入れていた携帯電話を取り出して、カメラ機能を立ち上げる。
「え、あ! ずるい! 何それ!」真由子が声を上げる。「後で画像送るから」
「…………くふ、喜んでもらえた、みたいで、何より……」
近くで俺たちの反応を窺っていたらしい白石が、柔らかい口調で言う。そして、
「あ――」
彼女は嘘みたいに軽やかに、校舎の真ん中辺りまで跳ねていく。
くるりと一回り、両手を広げて廻ったりしながら。
スカートが、長い髪が、大きく膨らむ。その光景は、とても美しくて、同時にどこか儚さを思わせた。俺も、真由子も、見惚れていた。
「うん……今日は電波の入りがいいね……」
そう呟いて、立ち止まった彼女はこちらを向いて、言う。
「ようこそ、秘密の箱庭へ」
「……すごい! 白石さん……っ、すごい!」
真由子は大はしゃぎだ。屋上。俺にもその気持ちがよく分かる。
屋上と言えば青春の情景になくてはならないものだ。しかし〝非情な現実〟の御多分に漏れず、この高校だって立ち入り禁止になっているはずだった。けれど、どういうわけか文芸部に代々伝わるというその鍵を以て、白石はあっさりとその禁忌を破ってしまった。
――真由子が憧れないわけがない。
真由子はもう夢中で、校舎の真ん中まで駆けていく。
「わ、すご、すごい! ナオ! こっち! 早く!」
ぶんぶんと子供みたいに手を振ってくる真由子の元へ、俺も向かう。
そうして校舎中央に辿り着いて――またもやその風景にやられてしまう。
クラクラする。全身が痺れたみたいに動けなくなる。足元がふわふわして、宙に浮かんでいるみたいな感覚。恍惚。視覚を襲う圧倒的な情報量。
「あー、やべ、言語野が機能しなくなる、これ」
もう一度携帯電話を取り出して、写真を撮りまくる。ぐるぐる、ぐるぐる、何度も何度も廻って廻って、この街の全景を脳裏に灼きつける。
「……この街、景色だけは本当にいいんだよな」
思わず漏れる、そんな本音。何もない街だと思っていたけれど、案外。
しばらく時間も忘れ風景を楽しんでいると、白石が俺たちの袖を引っ張った。
「ん、あ、何?」
「くふ……み、見せたいものは、これだけじゃなくて……」
白石は言った。俺たちに見せたかったものは、決してこの風景ではない? 隣の真由子は首を傾げつつも、何かさらなる興奮を得られるのかもしれないと期待の表情を見せる。
白石は校舎の縁近くに内股でぺたりと座り込む。俺たちも座るよう促される。長いスカートが放射状に広がって、その上を黒髪が触手みたいに覆い尽くす。
「ここ……」
そうして白石は、目の前の地面を指差す。
視線を落とすと、赤い絵の具か何かで描かれた、丸い図形に気がついた。
「……これは?」
近くで見ると、随分とかすれている。丸の中に、複雑な模様。ああ、よく見れば、これは、
「魔法陣」
「……魔法陣」
「そう……わたしの血を用いて転写された、儀式のための魔法陣……小さくても効果は絶大……」
「……うそ」驚く真由子。白石に合わせているのではなく、多分本気で驚いている。
「くふ、けひひ……」
「……いつも、ここで何をしているの?」
「……そう、だね、景色を楽しんだり、電波を受信したり、幽霊と遊んだり、かな……くひ」
……ああ、彼女も御多分に漏れず……。
「……ってか、もしかして、白石って、ここ結構来てる?」
「うん……来てる……昼休みとか……放課後とか……」
屋上の幽霊の件、あっさりと解決。
「……ねえ、電波って、どうやって受信するの?」
至極真面目に、聞き入るようにして、真由子は尋ねる。
「うーんとねぇ、こうして……」
白石は座ったまま、顔をかくんと上に向けて、両手をゆっくりと、空に差し出した。
「全身をアンテナにするの……電気のつぶつぶを感じ取ってね……」
……これは一体、何を参考に作り上げた設定だろう。支離滅裂というわけではなく、それなりの一貫性を感じる。さすがに面白い小説を書くだけのことはあるのだろうか。
「……すごい」
しかし真由子は――それは素直に、目を輝かせていた。
「電波を受信すると何が起きるの? 何ができるの?」
「そうだね……例えば未来を知ることができたり……自分が為すべきことを教えてくれたり……する、よ……」
「未来を、知る?」
「うん、くひっ。そう、そうだよ……この電波はね、人にぶつければ相手を狂わせることもできるんだけどね」
「え……」真由子はくっ、と思わず身を引いた。
「くひ、発狂、自分の言いなりにすることもできるよ……奴隷だね、ふふ、従順な、魂のない、肉体……でも、残念ながらわたしには、その才能はなかったみたい……」
電波を操って、人を狂わせる。そんなの、荒唐無稽だ。荒唐無稽だけれど。
――夢があって、悪くない。
「……それで、未来は見えたの?」
「うん……見え、たよ」
「……聞いてもいい?」
白石はずっと上に向けていた顔を正面に戻し、真由子をじっと見つめた。
それから、右手に広がる街並みに視線を向ける。しばしの沈黙。やがてぽつりと、彼女は言う。
「空に還るの」
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