6.契約


「……空に、還る?」

「そう……。世界はもうすぐ反転する。全てがひっくり返ル。生は死へ、死は生へ。善は悪へ、悪は善へ……。リバース・デイ。わたしは、空が墜ちてくるその瞬間に現れる時空の扉をくぐり抜けて、終わる世界にさよならを告げる……転生。リ・バース……ふふ」

「終わる……世界」真由子が顔をしかめる。「……それが未来?」

「そう……来るべき終末。人類は驕りすぎたから、粛清が下される……大災禍……その時、選ばれし者だけは、次の世界に……別の世界に……往ける……」

「……そのために、空に還るの?」

「うん……そうだよ……」

「……ちょっと抽象的すぎるな」俺は言う。

 大体言いたいことは分かったけれど、つまり何がしたいのだろう。

「具体的には、どういう行動を取るの?」どこか慎重なトーンで、真由子が尋ねた。


「そうだね、簡単に言ってしまえば、少し語弊があるのだけど……うん、そうね、ここから……飛ぶの……そう、飛ぶんだよ、ふひ、ふひひひ……」


 その言葉を聞いた瞬間、真由子の表情が変わる。

「……飛び降り?」

「ううん……違う。飛び降りるんじゃなくて、飛ぶ、んだよ、田中……真由子さん……」

 白石は自らの血で描いたという〝魔法陣〟を、その細く白い人差し指で愛おしそうになぞった。その表情は、これまでに見たことがないほど、恍惚に満ちていて。

 ――ああ、そうか。

 これまでの不可解な言動の全てが、ひとつに繋がる。

 白石は、ずっと前から、んだ。

「それって、それってさ」

 ……つまり、それは。


「自殺するって、ことでしょ?」


 白石は首を傾げる。垂れる髪が顔を覆う。その合間から覗く目は、「何を言っているの?」と、無邪気な子供みたいで。

「くひ? 自殺? 違う……違うよ田中さん……そんな形而下の現象じゃない……分かってない、分かってないよ、ふふ……でも、そうだよね、分からないよね……」

 白石は俯いて、顔の全てを真っ黒な髪で覆い尽くして、笑った。狂ったように笑い続けた。けひ、けひ、けひ、肩を引き上げ、頬が引き攣る。緩んだ口許が吐息を漏らす。けひ、けひ、けひけひけひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ

「――――ダメ‼」

 笑い声を掻き消すように真由子が大声を上げて、白石に掴みかかった。

 その勢いのまま、白石は後ろに倒れ込む。真由子は馬乗りになるようにして、白石の肩をがっちりと捉えて、離さない。

 白石の髪が、溢れ出た水のように地面に広がった。夜の海を思わせる、深い黒。

 彼女はきょとんとした顔で、真由子を見つめる。

 顔にかかる髪が取り払われて気づく、端正な頬のライン。すっとした鼻筋。少し薄い唇。真昼の太陽の光に当てられて、本当は柔らかい目元をしていることも、はっきりと分かる。

 極めて客観的に評価すれば――白石は真由子なんかより断然、美人だった。

 真由子は肩で大きく息をする。垂れる髪が荒々しく揺れる。彼女は興奮していた。

「死ぬなんて――自殺なんて! そんなの絶対にダメ! 許さない! 私はそんなこと許さない! 絶対させないから! させないから‼」

 泣き出しそうなくらい、切実に、真由子は叫んだ。鬼気迫る彼女に、唖然とする白石。

「……くひ、な、なに、田中さん、あ、えっと……」


「白石さん」

 真由子は、低く、重く、覚悟を含んだ声色で言う。

「な、なに……なん、です、か……」


「契約」


「……え」

「私と契約しなさい」

「……なに、を」

「私があなたを変える。あなたに革命を起こしてあげる。あなたの世界を塗り替えてあげる。――だから、その革命が成就した時は、全部取り消して」

「取り、消す、全部、……何を」

「死にたいって思うことも、その身体を傷つけることも、自分に存在価値なんかないって思い込むことも全部! 私がその気持ち全部! 空に還してあげるから! ……だから、だから、契約、して」

 本気だった。こんな真剣な真由子を今まで俺は、見たことがなかった。

 ――その真剣さに、白石は。

 長い沈黙。青空と遠い街並み。その先の水平線。淡い境界線。

 昼休みの喧騒。

「……契約の、媒介は……」

「……あなたの魂」

「……」

 白石は一瞬、困ったような顔でこちらに視線を向ける。

 彼女は再び、ゆっくりと真由子に視線を戻す。投げ棄てられるように垂れていた手のひらに、幽かに力が込められる。

「分か……った。契約……結ぶ……よ、契約」

 真由子の迫力に押されたのか。俺でも分かるその真剣さに、飲まれたのか。

 白石は契約を結んだ。

「……絶対、私があなたを変えるから」

 あまりに唐突な真由子の宣言。でもそれは決して、偽善的な何をも含んではいなかったと思う。勢いで行動してしまう彼女のこと、打算的な何かを瞬時に選び取るはずもない。

 屋上に風が吹く。しばらく二人はそのままの姿勢でいた。やがて白石がおずおずと、「あの……そろそろ……」と言い、真由子は彼女の上から退いた。

 三人で屋上を後にする。白石は柵の鍵を閉め、大切そうに首にかけ、ブラウスの内側にしまった。無言で階段を降り、昇降口に向かう。「部室、行くの?」と真由子が短く尋ねた。白石は頷く。三人で部室まで向かい、扉の前で彼女と別れた。


「……あんな堂々と宣言したけど、何か策があるのか?」

 教室に向かう途中の廊下。さっきの時間が嘘のようだ。体感で一時間以上あったような気さえする。屋上からの雄大な景色、白石の思惑。

「……ない」

 ……お前。

「……マジで言ってる?」

「……それを探すため、これからも彼女と接していこうと思ってる。引き続き昼休みは文芸部室に行くし、……多分少しの間、一緒に帰れないかも」

「……大丈夫、なのか?」

 俺のその言葉に真由子は立ち止まる。

「大丈夫。だって私たちは、SSS団だよ」

 ……謎の自信。

「何かが起きるかもしれない可能性を信じているナオになら、分かるでしょ、私の気持ち。その可能性を捨ててしまうことが、どれだけ恐ろしいことなのか」

「……そうだな、そうだよな」

 真由子は歩き出し、俺の隣に追いつく。二人の距離はさっきより少しだけ、近づいた。

 彼女はふと、俺の制服の袖を握る。

「ナオは……、ナオは、昼休みだけ一緒にいてくれれば、いいから」

 ぽつりと、どこか不安げに、そしてそんな不安を取り払うかのように、真由子は言った。

「ん……そうか。分かった」

 月並みな言葉だけど、頑張れよ。



 それから、真由子は白石と過ごすことが多くなった。昼休みに一緒に食事をするのはもちろんのこと、放課後一緒に帰ったりもしているようだ。あまり褒められたものではないけれど、部活も何度か休んだり、早退したりさえしている。仕方ない。だって命が懸かっているのだから。俺はせめて、そんな彼女の行動に対して全力でフォローをしてあげるだけだ。幸い、部活もまだ本格的な練習に入っている段階でもないから、なんとか取り返せるだろう。

 ……それにしても。

 一体あいつはどんな方法で、白石を〝革命〟しようというのだろう。

 昼休みは俺も付き合って一緒に昼休みを過ごしているが、それ以外についてはほとんど関わっていない。むしろ今はその方法を探すために動いているような気さえする。白石に伝う言葉を、刺さる言葉を、決定的な何かをぶつけるため、真由子は行動している。

 ――いつの間にか、誰かのために、動けるようにまでなっている。

 そんなことを思ったら、少しだけ目頭が熱くなった。


「最近田中が休みがちだな」

 部活終わり、演劇部同期の高橋敦斗が、いつも通りのどこか皮肉っぽい口調で言う。

 夏休みの部活をこなしていく中で、高橋とはなんとなく距離が近づいたように思う。同期の男子は他に安藤と熊谷がいるが、どうにも彼らとはあまり合わないらしく、自然にというかなんというか、どこか俺に対して攻撃的ではありつつも、何かと声をかけてくれるようになった。

「あー……ちょっとね、いろいろ込み入った事情があって忙しいんだよ」

「ふぅん……」

 駐輪場に向かいながら、日の沈みかけた空を仰ぐ。千切れ雲が紅く染まっている。ちょうど同じ時間に活動を終える様々な部活の生徒たちで、学校にはどことなく心地よい騒がしさが広がっている。

「それは、部活よりも大切なことなのか」

 高橋が訊いてくる。彼は真由子のことをあまりよく思っていないらしい。まあ頷けなくもないけれど、おそらくは部活での振る舞い以上にオタクっぽい部分や痛々しい部分が気に入らないのだろう。それは不思議なことじゃないし、理解もできる。

「ああ、大切なことだよ。絶対に」

 俺は力強く、そう返す。ああ、それはとてつもなく大切なことだ。真由子の世界にとって、それからきっと、白石の世界にとって。命が懸かっている、それだけでもちろん途方もなく重い話ではあるけれど、それだけじゃないんだ。あの真由子が、誰かのために本気を出して、人と関わっているんだ。世界と関わっているんだ。それがどれだけの意味を持つのか、どれだけすごいことなのか――それは多分、今はまだ俺だけしか知らないことなんだ。

「最近一緒にも帰ってないよな」

「え……あ、ああ、うん」

「いつから付き合ってんだ」

「え⁉」高橋の刺すような言葉に、心の臓がびくんと跳ねる。

「そんくらい見てりゃあ分かる」

「そうか……あー……えっと、夏休み入るちょっと前くらい?」

「……ほぉ? 芝居もそっちのけで色恋してたわけか」

「……そんなんじゃねーって」

 皮肉っぽく言いつつも、そこまで本気で咎められているわけではないということは、短い期間でも毎日のように接する中で、判断できるようになってきた。

「……七月頭の日曜日さ」高橋がぽつりと言う。

「お前、あの時追いかけたよな?」

「え、ああ、うん」真由子のことを指しているのだろう。

「何をしたんだよ」

「……え?」

「あの日から、部活の空気が変わったな、って思う。より正確に言えば、田中が変わったんだ。……お前、あの時田中に何をしたんだよ」

「あー……」俺は言葉を選ぶ。――でも、浮かぶ言葉は結局、これしかなかった。

「魔法使った」

「……魔法?」高橋は意味が分からない、と眉間に皺を寄せる。

「うん、魔法」

「……はぁ、そういやお前もそっち側の人間だったな。そうか、そりゃそうだな――」

 そこまで言って、ふと俯く高橋。

「……魔法って、そういうことか?」顔をこちらに向け、答えを仰ぐ。

「さあね」

「……ふぅん、なるほどな」

「高橋はなんかあんの?」

「……なんかってなんだよ」

「色恋」

「……俺は、そういうのは……」

「結構理想高いタイプだったりすんじゃねーの、お前」

「……うるせーよ」

 今回の秋の大会では、俺と同じように高橋もまた、役をもらった。「全ては来年、俺たち代の大会のためだ」と、やがて来る自分たち主導の時期に向けて貪欲に経験や知識をつけている最中らしい。頼もしいというか、なんというか。

「練習が本格的になれば、甘えたこと言ってらんねーからな」

「ああ、大丈夫。それまでには何とかなると思うよ」

 ……とはいえ、真由子一人で本当に大丈夫なのだろうか。

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