4.文學少女

「え、ほんとに?」

 真由子が食いつくように身を乗り出す。

「うん……後は、推敲、だけ……」

 白石はにやりと笑って、返事をする。

 昼休みの文芸部室。すっかり馴染み深くなったこの場所で、今日も昼食を取っている。

 出会った頃に白石に見せてもらったあの小説が、いよいよ完成間近だという。

「くひ……やっと……完成……これで、思い残すこともない……」

〝思い残すこともない〟――これまた不思議な言い回しだが、おそらくは今できる全身全霊を尽くした、という意味なのだろう。何か自分にとって大きなものを完成させた時、もう死んでもいい、と思えることは往々にしてあるだろう。程度こそ違うだろうけれど、俺も演劇部で公演をやり終えた後なんかにはそんな風に思えたりもする。とはいえまだ大きな舞台を経験したことがないから大それたことは全く言えないのだけれども。

「あ、その……」

 真由子が一瞬だけ逡巡して、そうして声を張った。

「この前! 完成したら見せてくれるって! 言った……」

 緊張するタイミングが謎。

「うん……いいよ……その脳味噌にちゃんと刻み込んで……ずっと忘れないように、ね……くふふ……」

 白石は細い右手で口許を隠し、肩を揺らして笑う。

「ね、ねぇ……じゃあ、じゃあ、私も……白石さんに、見せる」

 突然の宣言。

「……何を?」

 白石より先に俺が声を上げる。

 しばし黙り込んだ後、恥ずかしさを掻き消すように真由子は威勢よく言った。

「……私が書いた小説……」

 と思ったが、尻すぼみに閉じる言葉。

「それ俺も読みたい」

「……ナオには見せない」

「なんでだよ」

 白石は驚いた表情を崩して、すっかり聞き慣れた不気味な笑い声を漏らす。

「くふ、あり、ありがとう、嬉しいな……ひひ……じゃあ、明日……ちゃんと印刷して、持ってくる、ね、くひっ……」

「うん、ありがと。楽しみにしてる」


     ◇


 翌日の昼休み。俺と真由子が文芸部室でしばらく白石を待っていたが、不思議なことに彼女はくる気配がない。今日は約束の日。完成した長編小説を手渡してもらう日だ。

「……教室行ってみるか?」

「……うん」

「何組だっけ」

「4組」

 文芸部室を出て、1年4組に向かう。



 4組の教室に近づくと、何やらただならぬ空気を感じ取った。廊下に少しだけ人だかりができている。教室の中から男子生徒の声が聞こえた。何かを囃し立てるような、品のない笑い声だ。教室前方側の扉から顔を覗かせると、そこでは信じがたい光景が待っていた。

「――!」

 真由子は絶句する。俺も一瞬、頭の中が真っ白になった。

「音読音読!」

「――その時、鋭い閃光が辺りを照らした。少女は振り返る。『誰?』」

「ウォー、熱い展開きましたね!」

「……背後には一人の少女が立っていた」

「新キャラキタ――――‼」

「うっわ~! ちょっ……ダッサ! オタク臭すぎて鼻曲がるわ!」

「面白さが微塵も分からない。魅力が伝わってこないんだよね」

「編集長厳しいっすわー!」

 廊下側最後列、三人の男子生徒が白石を囲んで、辺り一面に白い紙を撒き散らしながら、それぞれ手に持った紙に書かれている内容を読み上げていた。

 それが何なのか。――白石にとっての何なのか。田中真由子にとっての何なのか。俺は一瞬で思い当たった。

 ――明日ちゃんと印刷して持ってくるね。


 白石の原稿が、弄ばれていた。


 そして、その男たちは、男たちは――‼

 夏休み前、田中真由子をからかっていたサッカー部連中だった。

 ああ、そういうことか。

 ある時を境に真由子への手出しが止んだのは。

 


 下腹部辺りで、ドロドロした怒りが沸き立った。


 でも、異常なのは、それだけじゃない。

 このクラスの誰もが、それを止めようとしない。

 誰一人として、白石を守る者はいない。


 自称転生少女〝アンタッチャブル・ガール〟

 世界は彼女に触れてはいけない。

 彼女は世界に触れられない。


 だから誰も彼女を助けない。救わない。――救えない。

 耳を塞ぐように頭を抱えて、机にうずくまる白石。その身体は震えている。

 男子生徒の茶化しは止まらない。どこまで他人を馬鹿にすれば気が済むんだ。

「――――いい加減に」

 俺が声を上げるとほぼ同時に、隣にいた真由子が教室内に駆け出した。

 沈黙を決め込むクラスメイトの間を縫って、身体にぶつかる机を吹き飛ばすようにして、男子生徒の元へ真っ直ぐに進んでいく。道中の机の上に置かれていた、誰のものかも分からない教科書を荒々しく掴む。B5サイズの分厚い教科書を両手に持って、速度のついたままその両手を大きく振りかぶって――

 真由子は、白石の一番近くにいた男子生徒の頬を思い切り、ぶっ叩いた。

 鈍く、乾いた大きな音が響き、教室には静寂が広がった。

 追撃する。両手を垂直方向に振りかぶって、男子生徒の真正面から額に向け振り下ろす。男子生徒はとっさに右手でその攻撃を防ぐが、情けない声を上げて後方によろけ、がたがたと机を巻き込んで倒れ込む。

 攻撃は止まらない。マウントを取るように倒れ込んだ男子生徒の上に立った真由子は、何度も何度もその顔めがけて教科書を振り下ろす。その横顔は――激しい怒りで満ちていた。もはや半泣きになりながら、何度も何度も手に持ったそれを叩きつける。

「――んだよッ……テメェ!」

 男子生徒が反撃に回る。曲げた右足を、真由子の腹めがけて放った。上履きの底が真由子の腹を捉える。真由子は鈍い声を上げて吹っ飛ぶ。開きっぱなしになっていた教室後方扉から、廊下に向かって倒れ込んだ。――そしてようやく、俺の身体が動いた。

「――ッ!」真由子に駆け寄る。「大丈夫かよ! おい!」

「……っ、うゥッ……」

 腹部を抱えて、真由子は苦痛に顔を歪めている。目に涙を溜めて、苦しそうに途切れ途切れの息をする。

 俺は男子生徒の方へ顔を向ける――精一杯の軽蔑を込めて。

 机や椅子を巻き込んだまま今も倒れ込んでいる男子生徒に、その奥で困惑の表情を浮かべ狼狽えている連れが二人。倒れ込んだ男子生徒はふらふらとよろめきながら立ち上がる。

「……女の子嘲笑って愉しいかよ。女の子蹴り飛ばして満足かよ!」

 気づいたら俺は叫んでいた。その言葉に顔を歪ませる目の前の男子生徒。

「――んだよ、オラァアッ!」真横の机をものすごい力で蹴り飛ばし、机や椅子、教室前方に避難していたクラスメイト、廊下に群がってきた野次馬たちを強引に掻き分け、男子生徒はどこかへ消える。連れの二人も困惑して顔を見合わせながら、先に消えた彼の後を追った。

 教室は静まり返っていた。真由子の嗚咽だけが、生々しく聴こえる。

 白石は、真っ青な顔をしてこちらを見たまま固まっていた。

「田中……さん、なん、で……」

「……白石さんの小説はダサく、なんか、ないし、つまんなくなんか、ない、から……」

 途切れ途切れ、苦しそうに顔を歪めながら、真由子は白石に言った。

「……とりあえず保健室行こう。立てるか」

 人も集まってきている。野次馬の視線もあまり気分のいいものではない。肩を抱いて、立ち上がらせる。歩き出すと野次馬たちは道を開けてくれる。心配、好奇、同情、驚愕、それでもその視線は心地良いものではないけれど。


 先程の喧騒が嘘のように静まり返った保健室近くの廊下。なんとか歩けるまで回復した真由子は俺の肩に体重を預けつつも、目的地に向かって歩いていく。

「……ナオ」

「どうした」

「あり、がと……」

「……ごめんな。ああいうのは男がやるべきことなのに、俺、何もできなかった」

「ううん……私が気づいたら動いてただけだから……」



「――うん、一応問題はないと思う。心配ならちゃんと病院に行くこと」

 保健室の先生はそう言って、こちらに心配しつつもやりかけだったらしい書類に向かった。保健室のソファーにぐったりと身体を預ける真由子。

「……大丈夫か?」

「うん」

「教室、戻れそうか?」

「……うん」

「……じゃあ、教室戻ります。ありがとうございました」

 あまり長居する場所でもないだろう。先生に礼を言って、俺たちは保健室を後にする。

 廊下に出ると、扉の前で立ち止まる真由子。

「ん? 忘れ物か何か――」

「うっ……ううっ……」

 小さな嗚咽。次第に大きく肩を震わせ、廊下の床に涙がボロボロと零れ落ちる。

「――っ、おい、どうした、大丈夫か」

 声を殺して、真由子は泣いた。

「っと、もう一回保健室入るか?」

 彼女はその言葉に、首を横に振る。「……どうするか」思い立つ。部室。

「……部室、行こう」

 階段を上がり、演劇部の部室に向かう。今は授業中だ。保健室に行っていたとはいえ、そこから真っ直ぐ教室に向かわないのは問題だろう。教師たちとエンカウントしないように周囲に意識を向けながら、無事に部室前に辿り着く。音を立てないようゆっくりと引き戸を開き、部室に入る。真由子は俯いたまま、俺の肩に添えていた手を離し、部室の床に崩れるように座り込む。

「……どこか痛むか?」彼女の左隣に座る。

「心」

 右手を伸ばし、背中をさする。そうすると、真由子が胸元に飛びついてくる。

「――! ど、どうした……」

「悔しい……」

「……」

「私、悔しい……」

 背中に添えていた右手で、なんとなく彼女を抱きしめる。上手いやり方は分からないけれど、その震える身体は、ちゃんと抱き留めてあげないといけないものだ、と思った。

「白石さんは……私と似てる、から、ほっとけない……」

 授業中の廊下からは物音ひとつ聴こえない。張り詰めたように静かな世界。部室の曇りガラスから、鈍く光が差し込む。弱々しく涙を流す真由子。気の利いた言葉は何もかけてやれない。ただ、彼女の悔しさを、悲しみを、受け止める。抱き留める。俺にできることは多分、それくらいしかなくて。


     ◇


 放課後。俺と真由子は北校舎一階の生徒相談室に呼び出された。そこで待っていたのは白石、白石をいじめていたサッカー部三人組、それからサッカー部顧問の体育教師、四組の担任に俺たち二組の担任だ。

 サッカー部の体育教師の左隣に、男子生徒三人が横一列に並ぶ。俺の右隣には真由子、そのさらに隣に白石がいて、白石に付き添うように四組の担任。俺たち二組の担任は向かい合う四対四の仲裁を図るように、その中間に立っている。

「ウチの部員が酷いことをした。すまなかった。蹴られた痛みはまだあるか? きちんと病院で診てもらうことを勧めておく」体育教師はそう言って頭を下げる。「白石も、本当にすまなかった。もしも深く傷ついていたら、適切なカウンセリングを受けくれ。謝って済む問題ではないかもしれないが……すまなかった」体育教師はとても誠実に、何度も頭を下げる。

「お前らも頭下げろ。誠意持って謝罪しろ」

 体育教師が低く言い放つ。視線が泳いだままのサッカー部三人は、動こうとしない。

「聞こえてんのかァ! 頭下げろって言ってんだよ!」

 相談室に怒声が響き渡った。激昂した体育教師が三人に詰め寄る。

「いいか、人様いじめてからかって、その上お前は女の子の腹に蹴りまで入れたんだぞ! 恥ずかしいとは思わねぇのか! 高校生にもなってそのくらいの判断もできねぇ奴はこの学校にはいらねぇんだよ!」

 すいませんでした、と、煮え切らない態度で三人は頭を下げる。

 白石も、真由子も、何も言わない。「白石さんは大事にはしない、と言っています」四組の担任が代弁する。「田中はどうだ」と二組の担任が尋ねる。真由子の攻撃は理由があってのことであり、その行為自体は認められなくとも理解はできる、と教師たちは言った。

「私も問題にはしません。私自身、手を出しました」

「……今後はこういうことが起きないよう厳しく𠮟っておく」

 体育教師が言った。サッカー部三人はしばらく部活停止になるらしい。

 一旦お開きとなり、俺と真由子は返された。


 相談室を出て時計を確認すると、部活終了まで三十分といった時間だった。

「……今日は部活休むか」

「……うん」真由子は疲れきったような返事をする。

 部室に真由子を待たせ、俺は一人で練習場所に向かい、理由を説明して帰らせてもらうことにした。部室前の廊下まで戻ってくると、右手に折れる通路から白石が現れた。

「あ…………セキヤ、さん」

「……おう。真由子なら中にいるぞ」

「……あ、うん……」俺と白石は一緒に部室に入る。

「ただいま」俺の言葉に真由子は顔を上げ、後ろにいる白石に気づく。

「あ……白石さん……大丈夫?」

「うん……大丈夫」

「……ごめんね」

 真由子は謝った。

「どうして……あ、謝る、の……?」白石は不思議そうに首を傾げる。

「……だって、渡してくれるはずだった小説……守れなかった」

「そんなこと……田中さんが、気にすることじゃ、な、ない……あれは、いつものこと……」

「いつものことって……お前、今までずっとあんなのに耐えてきたのか……」

「……ふひ、別に、わたしは、なんともない……」

 ――そんなわけ、あるかよ。

 俺の胸にも、悔しいという想いが沸き上がる。どうしようもなく、心が痛い。

「田中さん……それから、セキヤさん……今日は、あり、がとう……」

 白石は、笑顔とは到底言えないが、それでも精一杯の表情を作って、言う。

「明日の……昼休み……文芸部室、きて……真実を、教えてあげる……」

 白石は文芸部室のカーテンの奥に消え、鞄を手にして戻ってくる。

「それ、じゃあ、また明日……」そう言って部室を後にした。

「……俺たちも、帰ろう」

 静かに閉じられた扉から視線を外せないまま、真由子に声をかける。

「……うん」

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