元老院隔離区 中央魔方陣 2

 途中で拾った、やたらと雅な壺で堀から水を汲み、顔からゲロを洗い落とす。


 幸いほぼ全裸だったのでその流れで体も洗えばもう綺麗だった。


 …………世界がやばいというのに、俺にやれることといったら、ほとんどなかった。


 専門のバニングさんはもちろん、ここの設計を知ってるケイに、分野は違うが魔法は使えるダグ、三人は俺の知らない言葉で討論していて、それについていけない俺は、基礎を一々聞き直す邪魔者でしかなかった。


 やれることがない、ならせめて邪魔しないように外へ、じっとしてるぐらいなら体を洗おう。


 やれることを見つけて、やって、それももう終わってしまった。


 俺の肌から流れ落ちた汚れた水が芝生に染み込む。


 ゲロを、骸の眠る水に流し込む気にはなれずの対処だったが、ことさら強調するほどの手間もなかった。


 バチリ、と瞬く。


 天井の灯りはいよいよ激しく、絶え間なく点滅し、そのペースは明らかに早くなっている。


 誰に尋ねなくともわかる危険さに、俺は肌の雫を振り落とす事ぐらいしかなかった。


 ……やることなくなり中へと戻る。


 世界が大変なことになっているのにやれることのない無力感、というよりも手持ち無沙汰は、なかなかに形容しがたい。


 ……それもあって、三人が踏ん張っている中央魔方陣へは、戻る気になれず、なので逆の扉へと足を向ける。


 静まり返った廊下、照らすのはバニングさんが飛ばした魔法の灯りが一つ、照らされるのはめちゃくちゃな室内だった。


 ……そこで、どうしても見てしまうのは、バーナムだった。


 椅子に縛られたまま、ぐったりと青白く、それでも瞼を閉じられている。長いまつ毛は涙によってか、泥が洗い流され、本来の色に戻っていた。その服は、かけられた俺よりも汚れてなかった。


 物言わぬ亡骸に、思うことは多い。


 元老院にして極悪人、この惨状を、全ての問題の原因を作っておいて勝手に壊れて死に逃げた卑怯者、死者を悪く言う趣味はないが、それでもこいつは、地獄に落ちて欲しいと切に願う。


 ……と、俺の足は引き寄せられるかのように、そのバーナムへと向かっていた。


 何か考えついたわけではない。ただほんと、直感というか、なんとなくといった感じで近寄って、そしてそのはだけた懐に俺は手を入れていた。


 冷たくてブニブニした肌触り、悪寒と若干の罪悪感、そして指に触れ、引っ張り出したのは、一冊の手帳だった。


 黒革でいかにも高価そうな、なのに紙自体は水に濡れて乾かしたみたいにゴワゴワで、相当使い込まれているようだった。


 それを開く。


 パタリ、と開かれたページは、何度もそこを開いていたようで、折り目が付いていた。


 書かれているのは一文、詩のようだった。


『悪人に休息はない。だから起きて働こう。労働こそが贖罪なのだから』


 ……俺は、学はない。だからなのか、これが何かからの引用なのか、何を意味しているのか、そして良いのか悪いのかも判断できない。


 ただ、他のページをめくっても、滲んだり、擦れたりしてはいるものの、これと同じ一文がひたすら書き殴られていた。


 未熟な俺の直感がこれだと叫んだ。


 日記や妄言ならまだしも、バーナムが肌身離さず持ち歩く手帳に書かれる一言、それほどまでに大事な一文は、一つしか思いつかなかった。


 もちろん罠かもしれない。自爆するための一文かもしれない。俺にはわからない。


 だがこれを見せれば何かしらのヒントになるかもしれない。


 俺は逸る気持ちに逆らわず、早足で三人の元へと向かった。


 ▼


 戻って来た時、三人は俺の予想以上に煮詰まっていた。


 バニングさんは丸まるようにしゃがんでいた。


 組んだ腕の中に顔を埋めて、頭の鶏冠も崩れて、寝てるのか泣いてるのかといった風貌だった。


 ダグは素振りをしていた。


 金属の棍棒を胸の高さで真横に振るう、その眼差しはここではないどこかを見ていた。きっとあれは野球の神様への祈りの儀式なのだろう。


 そしてケイは、一見すると普通だが、よく見ると高速で回転していた。


 それも風を切るような、小石を乗せたら弾き飛ばすような、かなりの速度でその場で回転し続けていた。


 あぁこれは、見たことがある。


 敵に囲まれ、補給線も切られた塹壕の末期だ。


 迫る敵になんとかせねばととりあえず何かをして、それが問題解決に至らないのにもかかわらず、それ以外に何をやって良いかわからず、ただひたすら無意味を繰り返し続けるだけの状態、末期だ。


 あの塹壕は、間に合った俺たちによって終わりのないストレッチ体操から解放された。


 今度は俺がここを解放する番だ。


「なぁ、コードっつったっけ? 暗号みたいなやつのことなんだけど」


 言いながら手帳を開く。


「悪人に休息はない。だから起きて働こう。労働こそが贖罪なのだから」


 ぼそり、とバニングさんが言いやがった。


「緊急停止呪文は緊急時に使うもので、少なくともここが作られた時代は暗号化されてないの。慌てて間違えないようにって。だからそれだけはわかってるのよ」


「……そうか」


 手帳を壁に向かって投げ捨てる。


「呪文はわかってます。問題は魔力の質、呪文を唱える人物です」


 ケイは回転し続けてる筈なのに普通の声で話してた。


「停止命令は極端な話、この地下空間であればどこででも唱えれば発動します。ただし認証されるのは。ドミニオン・システムによって登録された人物か、その後継者に限られます」


「つまり死んじゃったから受け付けさせる手段がないの」


 バニングさんが若干泣きそうな声で続ける。


「せめて生きたバーナムがここにいれば、魔力感知の部分に本人押し当てて誤作動狙えたのに、死にやがって」


 ぼそり、といった後にガバリとバニングさんが立ち上がる。


「悪人に休息はない! だから起きて働こう! 労働こそが贖罪なのだから!」


 バニングさんが文字通り声を響かせる。


「続けて! 昔の魔方陣は魔力感知が完璧じゃないから、低確率だけど誤認識起こすことあんの」


「低確率って、どんだけだよ?」


「少なくともここでじっとしてるよりかは生存確率上がるわ。ほらはやくはやく! 悪人に休息はない! だから起きて働こう! 労働こそが贖罪なのだから!」


 バニングさんが手を振り回して俺を促す。


「悪人に休息はない! だから起きて働こう! 労働こそが贖罪なのだから!」


 ケイも続く。


「悪人! 休息! ない! だか! 起き! 働こ! 野球! こそが! 贖罪! 間違えた!」


 素振りしながら片言で間違えながらもダグも続く。


「ほらさっさとして! 悪人に休息はない! だから起きて働こう! 労働こそが贖罪なのだから!」


 バニングさんの急かされ、俺も言う。


「悪人に休息はない。だから起きて働こう。労働こそが贖罪なのだから」


 バチッン!


 今までにないほど強烈で、もう終わりだと知れる衝撃、もう本当に時間がない。


「悪人に休息はない! だから起きて働こう! 労働こそが贖罪なのだから!」


 破れかぶれで叫ぶ。


「悪人に休息はない! だから起きて働こう! 労働こそが贖罪なのだから!」


「悪人に休息はない! だから起きて働こう! 労働こそが贖罪なのだから!」


「悪人に休息はない! だから起きて働こう! 労働こそが贖罪なのだから!」


 続けて叫び続けるバニングさん、ケイ、ダグ、だが良い変化はない。


 それでも叫び続けるしかないので叫ぶ。


「悪人に休息はない! だから起きて働こう! 労働こそが贖罪なのだから!」


 あぁこれは、俺も末期の塹壕に囚われたな。


 と、骨面が上体を起こしていた。


 面の取れた顔は、不思議なものを見る表情だった。


「悪人に休息はない! だから起きて働こう! 労働こそが贖罪なのだから!」


 それでも止まらぬ俺の声に、骨面もまた、口を開いた。


「悪人に、休息はない。だから起きて働こう。労働こそが贖罪なのだから?」


 これまでにない、これまで以上の衝撃、それも終わりなく続く。


 それは身を焼く閃光、瞼を閉じても視界を白く染める強すぎる光は、体全てで感じられるほど強く、熱く、痛い。


 声も出ず、逃げることも叶わず、思うことはたった一つだけだった。


 …………あぁ、これは、死んだな。

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