第13話

 家の奥の方でかちゃりと、微かな鍵の回る音がした。どんな顔をして出迎えれば良いか分からず、そのまま仕事を続ける。足音が近づき、居間のドアが開く。

「た、だいま」

 妙なところで区切れた挨拶に振り返ると耳の赤い彼が立っていた。

「照れないでよ」

「だって、さ。ってかなんでメガネ?」

 仕方ないでしょうと顔が言っている。照れられると何だかこちらまで恥ずかしくなるのは不思議なものだ。

「仕事してたから」

「やよいさんなんの仕事?」

 仕事と聞いて目をぱちくりさせる。仕事をしているイメージはないだろうけれど、してないとでも思っていたのか。

 さて、今答えるべきか否か。昨日の時点で自身のペンネームを知らんぷりしている以上、大変言い出しにくいことこの上ないのだ。この際後でもいいだろうか、ひとまず唐揚げを揚げよう。でないと夕飯が遅くなる。そうだ、そうしよう。

「……ご飯、食べてからにしよう」


 結局、今日もまた2人の食卓となった我が家のテーブルには、唐揚げとサラダ、ワカメと豆腐の味噌汁が並んだ。子供舌の樹はやっぱり唐揚げも好きだった。

 はふはふと熱がりながらも、みるみる平らげてゆく姿は見ていて楽しく、あっという間に食事が終わってしまった。

 もう逃げ道はない。ご飯は食べた、食器も下げて洗った。食後と言った以上今言わねばなるまい。腹を括って向かいに座る男を見る。男は優しい目をしていた。

「作家をしてます。メガネかけてたのはパソコンで話書いてたからで、度は入ってない」

「18で上京して作家になった。大学には自分で稼いで行ったよ。家にはメモ1枚ぽっち残して出てきた。だから家族はもうどこにいるか判らない」

「あんたが昨日見せた本、書いたの私なんだ。理想の家族とか言われる話書いておいて、書いたやつは家族を捨ててる、がっかりだろう?」

「あんたが好きだって言ったのは、夜な夜な酒飲んで、遊び歩いて生きてるろくでもない女だよ。名前に似合う様な優しい人でもない。優しさも、捨てるものも、きれいな身体も無い。こんな何にもない女より、あんたにはもっと綺麗でふわふわした女の子が似合う」

 動き出した口が止まらない。しかしすぐに自分について話すことが無くなって、やはり自分がつまらない奴だと思う。半分以上が自虐でできた支離滅裂な話を彼は終わるまで黙って聞いていた。

「……俺は、似合う似合わないとか知らないよ。好きな人はやよいさんなの」

 こいつはいちいち言うことが甘い。

「やよいさんは、俺の事好き?」

 彼は尋ねながら立ち上がって私の隣に腰を下ろした。

 答えられない。名前を呼ぶ声が、甘くて甘くて、苦しい。涙が出るほど―

「―苦しい」

「やよいさん?」

「あんたに名前呼ばれるたびに苦しくて仕方ない」

「泣かないで、やよいさん」

 そっと手を取られる。自らの胸に私を引き寄せ、抱きしめる。暖かくて、鼓動が速い。

「困っちゃうよ、俺。そんなの」

 頭を撫でる手が優しくてさらに涙が出る。

「好きって言ってるようなもんじゃん」

 樹の声はずるい。全てを受け止め、納得させる力がある。私が、樹の事を―

「家族のこと、後悔してるんでしょ。俺に今朝聞いたこと覚えてる?」

「うん」

「俺が言ったことも覚えてる?」

「うん」

「俺の好きな人のこと悪く言わないで」

「……ごめん」

「ね、もっと教えてよ、やよいさんのこと」

「うん」

 じわじわと彼の声に甘く蝕まれていく気がする。

「地元は?」

「北海道」

「あ、手袋するのを『手袋履く』って言うところだ。やよいさんも言う?」

「言うよ」

「やっぱり言うんだ。好きな色は?」

「緑」

「いっつも黒い服だけど黒じゃないの?」

「黒は2番目。緑の服、似合わないんだ」

 それから、長い間他愛もない話を沢山した。好きな食べ物、好きな電池の大きさまで。彼はずっと、努めて明るく話してくれた。

「じゃあ、好きな―」

「樹」

 それまでずっと髪を梳いていた手が止まり、身体がぴくりと反応する。

「ん?」

 動揺の隠せていない彼は、焦った声で短く返す。巫山戯ふざけて以外、彼の名前を呼んだことは無かったから、私もどぎまぎしてしまう。それでも言葉はするりと口を抜け出した。

「好き」

 そう言った途端、抱きしめる力が強くなる。苦しい。

「……反則だよ、俺、会った時からずっと好きで、一目惚れで、俺ばっか好きで、そんなん言われたことない」

 彼の声が徐々に涙声になってゆく。彼が泣いていることに、今度は私が動揺した。どうして良いかわからず、彼の身体に腕を回す。鼻をすする音が聞こえて、また腕の力が強くなった。苦しい。苦しいけど、嬉しい。いっそこのまま、彼の早鐘を打つような心音を聞きながら絞め殺されたいと思うほど。

 ふと腕が緩んだ隙に顔を上げる。眉が下がり目の潤んだ彼の顔は、夢に出てきた少年そっくりだった。あれは、私の子供の夢。きっと、私と樹の。

 彼の涙腺が涙の供給を抑え始める。それでも乾ききらない目元を手の甲で拭った彼は、額をこつんと合わせて、泣かされちゃった、と困ったように笑った。

「…いつか、いつかさ」

「うん?」

「一緒に帰ってくれる?」

「それって、さ、やよいさん」

「ん?」

「……ううん。はい、喜んで」

 樹となら、またあの北の地に帰れる気がする。家族がどこにいて、私をどう思っていようとも、一緒なら。

「居酒屋か」

「今そういうこと言う?」

「ごめんごめん」


 歳ばかりくって、悪いことばかり覚えたけれど。悪いことばかり起こった訳じゃない。一夜の出会いも、短い交流も、楽しい事がなかった訳ではない。しかし決していいとは言えない人生だったのも確かだ。それでも、その果てがこの男との出会いならば、私の人生も悪くない。そう思うのはむしのいい話だろうか。けれど、


 どうか、


「あ、今度打ち入りあるんだけど」

「何の?」

「昨日の、やよいさんの本の」


 どうか。


「へぇ」

「行かない?」

「呼ばれてないのに?」

「行こうよ、楽しいよきっと」


 叶うならば、この先。


「どうしようかな」

「サプライズゲストだよ」

「うわ、そんな大仰なの嫌だよ絶対行かない」

「えー?」


 私のことを離さないでいて下さい。


「……やよいさん」

 存在を確かめるように呼ばれ、奪われた唇は、苦いと錯覚するほどに甘かった。

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ねぇ、 蒼野海 @paleblue_sea

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