第12話

「……合鍵、欲しいんだっけ」

「……うん」

 首元から声が聞こえた。顔に触れる寝癖が物理的にくすぐったい。

「もし、さ」

「うん」

「合鍵でこの家のドアを開けて、私がいなくなってたらどうする?」

 そんなことを聞いて何になるのだと分かってはいる。しかし、口は止まらない。

「朝起きて、リビングのドアを開けて、私がいなくなってたら、どうする?この家から、この街から、いなくなってたら―」

 その先は言えないまま、罪悪感でいっぱいになる。朝起きて早々意味のわからない質問をされる彼への。そして、18年間育ててきた娘が突然消えた両親への。

「ねぇ、やよいさん」

 抱きしめる腕の力が強くなった。

「震えてるよ、泣かないでよやよいさん」

 次から次へと涙が溢れてくる。自分のしたこと事への罪悪感にまだ取り憑かれているなんて、情けない。

 彼と触れている部分だけが優しく暖かい。

「いなかったら探すよ、どこまでも。地球のどこにいても見つける。何回居なくなっても、探すよ」

 無理だよ。

「あと、俺は居なくならないよ。ずっとやよいさんのそばに居る。好きだから、許してくれる限りここにいる」

 それも無理だよ。あんただっていつかいなくなる。

「好きだよ、やよいさん」

 何も言えない。

「……何かあったんだよね」

 口に出そうとすること全てが、嗚咽に変わってしまう。

「ちょっとずつでいいから教えてよ」

「辛いこと、半分俺にちょうだいよ」

「やよいさんの弱いところは俺が守ってあげるから」

「だから、泣かないで」

 ごめん。そう言いたいだけなのに言葉が出ない。

 いつの間にか正面から私を抱きしめる樹は、涙が止まるまで頭を撫でながら抱きしめ続けてくれた。いつの間にか、夜は明けきっていた。

 怖い。好きと言ったこの男が自分を知って、この程度の人間なのかと思われることが怖い。それが怖くて、今まで人から逃げてきた。浅く、短く関われば、自分のことを知られる前に逃げることが楽だった。

 落ち着いたらこれまでのことをちゃんと話そうと思った。


 彼が家を出る時、合鍵を渡した。

 朝食を食べて、いつもよりのんびりと家を出ていく彼に、「忘れもの」と言って渡した。彼は目を丸くしてから照れたように笑って、「行ってきます」と言った。

 今日も来るつもりなのか。まあいい、帰ってきたら話をしよう。私について。

 彼が居ない昼のうちに仕事をこなす。今書いているのは、昨日見せられた本の続編。ついでにまぁちゃんに連絡を取って、映像化の話について詳しく聞いてみた。どうやらアニメーションになるらしい。言ったじゃないかと会社モードのまぁちゃんに咎められたが、よく思い出せない。人の話をよく聞かないのは悪い癖だ。

 送られてきた香盤表こうばんひょうの一番上にはやっぱり樹の名前があった。若いが定評と人気のある役者だとまぁちゃんは言っていた。どうなるかは分からないが、成功するといいと思う。関わりのないことと思っていたが、少しだけ興味が湧いた。

 仕事をしていれば時が経つのはあっという間で、さっき起きたばかりだと思っていたのにもう日が傾いていた。夕飯の支度をしなくては。

 冷蔵庫に鶏肉を見つけたので、唐揚げにすることにした。ハンバーグが好きな、推定子供舌の彼はきっと好きだろう。サラダと味噌汁を作り、唐揚げは揚げるだけにしてまた仕事をする。

 今日は何時に来るだろう。

 待ち遠しいような、そうでもないような、妙なそわそわ感が心を支配した。

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