第10話

 食事は静かなものだった。

 食器が軽くぶつかる音だけがし、なんとも言えぬ気まずい空気が流れる。

「やよいさん」

 茶碗と箸を持って肉じゃがを見つめたまま、彼が不意に声を上げた。

「ん?」

 突然の開口に小さく肩が跳ねる。がばりと顔を上げた真剣な顔の彼と目が合う。

「超美味い何これ」

「肉じゃが」

「天才だねやよいさん」

「お代わりあるよ」

「後で食べる」

 ……正直、拍子抜けした。少し笑ってしまった。真面目な顔をして何かと思えば、そんなに美味しかっただろうか、それとも空気を変えるために言ったのだろうか。

 いや、考えるまでもない。彼は犬のように元気な様で、よく考えて行動する節がある。後者だろう。

 しかし、良かったと思う。このままさっきの合鍵 云々うんぬんの話が流れ、私は明日、なにか彼に似合いのアクセサリーや小洒落こじゃれた実用品でも買ってくればいい。そうすれば何事も起こらずに全て収まる、今まで通りのはず。

 何を買おうかと思案しつつ、彼の服装を観察していると、またしても彼は言を発した。

「やよいさん」

「ん?」

「やよいさんって、本読む人?」

 これまた唐突な。実は本好きが高じてこの仕事に就いたので、かなり読むほうではある。寝室の隣の部屋には床が抜けそうな程に本があって地震が心配な部屋があるが、人を入れたことは無い。

 しかし、彼には職業を言っていないし、言う気もない。

「割と。なんで?」

「……俺、役者やっててさ」

「……ほう」

 初めて知った。確かにスーツを着ている姿を見たことが無い。我が家にはテレビがないから判らないが、有名なのだろうか。それとも舞台役者?この東京という街には役者という肩書きの人間はいくらでもいる。それだけで食っていける世界では無い事が多いというのが、私たちと同じところだろう。それにしてもまた唐突な話だ。

「今日、主役もらったんだけど」

「うん」

「俺、本読まないから有名な人なのかわかんなくて」

「ふぅん、なんて人?」

「『滝野すみれ』って人」

 そう言って彼が鞄から出した本には見覚えがあった。いや、ありすぎた。

「知ってる?」

 知ってるも何も、私だ。確かに彼が出してきた本には映像化の話が出ていて、好きにしてくれと言った気がしなくもない。それっきり、放っておいた。もう既に私の手を離れてメディアミックスがなされていると思ったから。

 どうしようか。なんと言えばいいか。素直に自分だと告白するか、もしくはただの読者のフリをするか。さして有名ではないとだけ言って、話を終わらせるか。

 今までまぁちゃん以外と3ヶ月以上関わって来なかっため、こんな話になったことは無い。今まで生きていて、こんなに焦っている事があっただろうか。いや、焦っていても仕方がない。私は腹を決めて、口を開いた。

「あぁ、読んだことはあるよ。さして有名ではないけど」

「ふぅん、そうなんだ」

 今日のところは、うん。そうだよ。ということにしておいた。

 全く、今日に限ってどうしてだか色々な事が起こる。

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