第9話

 インターフォンが鳴った。樹だろう。玄関でドアを開けると、案の定だった。いつも夜中に来ていたのに、今日は21時に来た。珍しい。

「こんばんは」

「はい、こんばんは」

 彼はいつも通り笑っているはずなのに、雰囲気が違うように見えた。

 きっと、気のせい。

 昼間まぁちゃんに変なことを言われたから。

 案外気にするタイプなのかもしれない。

「今日は早いね」

「仕事早く終わったんだよね」

「ふぅん」

「今日のご飯何?」

「ここはお前の家か……肉じゃがだよ」

「すっごい久しぶりに食べるなぁ」

 自分で作ればいいのにと言いかけて止めた。そう言えばだったっけ。またしてもくだんの顔を思い出して笑いそうになった。

「やよいさん、おかえりのちゅーは?」

「はい?」

 何だって?

「行ってらっしゃいはしてくれたのに、おかえりはしてくれないの?」

 さも当然のような顔をしていて、若干腹が立つ。新婚か?いや、今どきそんなことをしている新婚夫婦も居ないのではないか?そんなもの物語の中だけの風習だと思っていたのだけれど、そうでもないのだろうか。

 結局まだ玄関から一歩も進んでいないことに気づき、諦めて触れるだけのキスをした。

「ただいま」

「……おかえり」

 ふふふと腹の立つ顔で笑う彼と共に居間に向かう。やっぱり彼はどこかいつもと違う気がして、気になる。

「いいことでもあった?」

「え?」

「いつもと違う」

「あぁ、今日俺の誕生日なんだ」

「えっ」

 聞いていない。いや、元々知る気もなかったから聞いていないのは当然なのだけれど、知ってしまった以上何かしなくてはと思うのが人のさが

「そしたらなんか図ったみたいにいいことばっか起こってさ。朝一でやよいさん見れるし、おっきい仕事貰えたし、現場でお祝いしてくれてケーキも食べたし、やよいさんが晩ご飯作って待っててくれるし、行きも帰りもちゅーしてくれるし」

 ほぼ時系列通りに言ってくれたのだろう、何となく彼の一日が見えたような気がする。

「……そう、早く言ってくれればなにか買えたのに。プレゼント、なんか用意しとくよ。欲しいものある?」

 少しぶっきらぼうな言い方になってしまったが仕方ない、「いいこと」の中の大半が自分に関係していると、目の前で言われてしまったのだからどうしていいか分からない。

「じゃあ、合鍵」

「却下。うちに住む気か」

「うん」

「おい」

 いよいよ複雑になってきた。付き合ってもいない女の家に、住む?どんな冗談だ。

「俺本気だよ」

 反射的に顔を見ると、表情は真剣そのものだった。初めて見る真面目な顔は、自分さえももやがかって見えない心中をも見透かしそうで、思わず目を逸らした。

「やよいさん―」

「ご飯、食べなきゃ。あっためてくる」

 耐えられなかった。この先は聞いてはいけない気がしていそいそとキッチンへ逃げる。

 いつまで家に来るつもりなのか聞こうとしていたのに聞けなくなった。

 私の名前を呼んだ先を聞いてしまっては、この大人の悪い都合で成り立っている関係に後戻りがつかない気がする。

 後戻り?

 そこでと気がついた。私は、彼と、長く関わろうとしている?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る