巻の終「新生活」
第51話「自律」
「
「おっ、楓花ちゃん。今日も元気だねー。いつものよろしく」
「毎度ありがとうございます。少々お待ちくださいね」
「楓花ちゃん、こっちお替わり」
「はーい」
楓花は声をかけられた方に笑顔を向けてから、厨房に注文を伝えに行く。
「もうちょいでできるから、ちょっと待って」
「はーい」
厨房からの声に答えると、背後から
「よかったなあ老板、いいコが来てくれて。ちょーっとそそっかしいところもあるみたいだけれど」
「ええおかげさんで。いやー最初は茶碗を割るわ注文は間違えるわでどうしようかと思ってましたが、
あれから、もう一月か。あっという間だったな。
あの夕暮れ、突然の宣告を受けて――ぼろぼろ涙が出てきた。
だけど口をついたのは、「嫌だ」という怒りでも「何故」という疑問でも「考え直して」という懇願でもなく――「ごめんなさい」という謝罪の言葉だった。
つまり、そういうことだ。
それからの話は早かった。
訪ねてきた志均に婚約解消を告げられた義両親は驚愕し、義母にいたってはその場に倒れ込んだ。慌てて駆け寄る志均の袖を義母はグッとつかみ、「私どもの教育が行き届かないばかりに申し訳ございません。ですが、どうぞお願いです、いま一度機会を」と取り縋った。その傍らに義父は膝をつき、「全ては私の至らなさ故。本当に申し訳ございません!」地に頭をこすりつけるように何度も頭を下げた。
老親にそんな真似をさせるのが申し訳なくて、また、主家の志均に言われ仕方なく自分を引き取ったのだろうとばかり思っていた自らの浅薄さが情けなく、志均から両親を宥めるようにと事前に言われていたにもかかわらず、楓花は泣いて二人に謝り続け、そんな三人を前にして志均は珍しく困惑していた。
志均はどうにか三人を宥めると、
「全ては私の勝手なのです。悪いのは私であって、彼女にも、ましてお二方にも何ら責はありません。――こちらに来て三年、物好きな老師に医の手ほどきを受け、今はなんとなくその手伝いのようなことをしておりますが、知識不足を痛感する日々です。ですから官学できちんと学び、一人前になりたいと思ってのことなのです。それには時間がかかりますから、その間彼女を束縛するのは心苦しく、何より今は、一途に本願を達成したい。ただただ私一人のわがままなのです」
そう懇々と諭され、なにより勘当されたとはいえ志均は主家の一族であり、見た目に反して一度言い出したら絶対に引かない性質も充分理解している義父母だったので、結局は了承するしかなかった。
もはや花嫁修業が不要になった今、楓花がこの家にいる理由はなくなった――のだが、志均がこれまでと変わらず楓花を置いてやって欲しいと頼んだ、からだけでなく、義母は目を光らせて「これからはますます厳しくしつけて、今度こそ立派に嫁がせなければ!」と気勢を上げる始末。
確かに、ここを出ても行くところはない。だけど――。
そんなときだった。春麗が依頼料を払いに志均邸を訪れたのは。
その帰り、彼女は顔を見せに家に立ち寄ってくれた。
「てっきり志均さんのところで会えると思ったのに。どうしたの?」
今日の空のように晴れやかに問われ、楓花は「ちょっと……」とあいまいに笑ってごまかすしかなかった。
二人は連れ立って、先日訪れた寺院の露店でお茶をすることにした。境内は相も変わらず色々な娯楽が溢れ、人々はみな賑やかである。澄んだ青空の下では多種多彩な花が咲き乱れていて、この世の春とはこういう景色をいうのかな、と漠然と楓花が思ったとき、隣の春麗が言った。
「私、この
米を作っている遠縁を頼って張青と二人田舎に行き、一からやり直すのだという。
それは……楓花は思った。
城市で生まれ育った張青が、田舎暮らしができるだろうか。それになにより――。
「借金癖と浮気癖は治らないぞって色々な人に言われたわ」
楓花の心を読んだかのように、春麗が言った。まるで今度の休みの予定を話すかのように、それは楽しげに。
「だったら……」
おずおずと言葉を絞り出す楓花に、春麗は境内に満ちる春の日ざしのような、麗らかな笑顔を見せて、
「もちろん私も考えたわ、すごく。だけど、じゃあここで別れよう! には、どうしてもならなかったの。だから、私がそう決めたんだから、どんな結果になっても、この選択を後悔したりしない」
春麗は、一言一言確かめるようにそう言った。まるで、自分に言い聞かせているかのように。
なんてステキな人なんだろう……。楓花は思わないではいられなかった。
本来なら喜ばしいはずの結婚を手放しで喜べないし、彼女の決断を嗤う人もいるだろう。だけど、彼女がそれを全部承知のうえでそう決めたなら、もうそれでいいと思った。
彼女の幸せを祈ることしか、今の自分にはできないけれど。
楓花は春麗の手を取り、
「こっちに用があるときには、ううん、用がないときでも遊びに来てね」
「分かった、その時は家に行くね」
「えーと、あそこにはちょっといないかも……」
「ああそうよね、お向かいに引越しするんだもんね」
「いや、そうじゃなくて……」
「――どういうこと?」
綺麗な眉をくっきりと寄せる春麗に、「実は……」楓花はこれまでの顛末を手短に説明する。
春麗は非常に驚いていたが、根掘り葉掘り事情を訊いてくるようなこともなければ、不必要に憐れみをみせることことも、まして志均を責めるようなこともなかった。
「じゃあ、これからどうするの?」
「このままでいいって言われてるけど、そういうわけにはいかないと思ってる。でも――何にもしたことがないから、どうしたらいいのか分からないんだけど」
「じゃあ! 私のお店で働かない? 私住み込みだから、住まいも確保できるよ。今から求人を出すって言ってたから、よければ老板に紹介しようか? なんなら出発まで、お店の仕事を特訓してあげられるよ」
そして、今である。
「はい、お待たせしました!『いつもの』です」
そう、馴染み客の前に皿を置いたとき、
「こんにちは」
入り口から、聞きなれた柔らかい声。
「歓迎光臨! お疲れさまです」
「昼時は過ぎているのに、相変わらずここは盛況ですね」
言いながら店に入った志均は、楓花に案内されいつもの席に座る。
「じゃあいつものをお願いできますか?」
「はい!」
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