第52話「絶交」

「ああ美味しかった。ご馳走さまでした」

「いえいえ、お粗末さまでした」

 そう志均に深々と頭を下げるのは老板である。

 客に対しては非常に腰が低くにこやかだが――使用人に対しては厳しい人だった。まあ、やはりといえばやはりなのだが。

 少し茶をこぼしただけでも「材料を無駄にしやがって!」と怒鳴り散らすし、機嫌が悪いと意味不明に当たり散らされる。なのに茶碗を幾つも割り注文を間違えて材料を無駄にした楓花がここにおいてもらえるのは、彼女が勤めて以来ここで毎日昼餐をとる志均のおかげである。

「すみませんが老板、少し楓花さんをお借りできますか? 次の往診まで少々時間がありますので、食後の散歩にお付き合いいただきたいのですが」

「ええええ、どうぞどうぞ。ちょうど休憩に入るところですし。楓花、気をつけてな」

 猫なで声でそう言われ、「はい」と答える声が引きつる。周りの同僚たちも「うわあ」という声が聞こえてきそうなほど、露骨に顔をしかめた。そして目配せ。「後で報告ね!」と言っているのは間違いない。

 その諸々に「じゃあ行ってきまーす」と曖昧に笑って、楓花は志均とともに店を出た。


 往診の空き時間、ということで、たまにこうして店を連れ出される。短い休憩時間の間なので、店先を冷やかしながらちょっとした近況報告など、たわいない話をするだけなのだが。

「おにいさーん、寄っていってー」

 階上から甘やかな声。

 美しい装いの佳人たちが、道行く男性を誘っているのだ。彼女たちのたおやかな手の動きに合わせ、肌の透ける羅衣がゆらゆらと揺れる。

 市ではよく見かける風景――だが志均はその姿を見て、思わずとばかりに呟いた。


「琉樹は、どうしているんでしょうね」


 翌日以来、楓花も琉樹に会っていない。


 このことを知ったらきっと大兄は怒るだろうな――前夜から眠れず、自室にこもってぼんやりしているところに、琉樹が訪ねてきた。

 いくら兄妹同然に育ってきたとはいえ赤の他人、きちんと弁えるようにと常々言われており、それは琉樹も承知していた。だから決して一人でこの家の門を敲くことはなかったのだ――それでなくてもこんな早朝に。

 もうそれだけで、彼が事情を知ったことは明らかだった。

 琉樹のただならぬ様子に、門前を掃いていた家人が機転を利かせ、楓花にだけこっそり知らせに来たのだ。

 琉樹がいるという裏門に向かうと、門を開けるなり、

「おまえ、一体何をしたんだ! 浮気か? 借金か? 正直に言え!」

「そんなこと――するわけない!」

 いきなりのあんまりな発言に、楓花が強めに言い返すと、琉樹は少し驚いたように息を詰め、そうして大きく息を吐いた。

「そりゃあ、そうだよな。ごめん、ひどいこと言った。――小妹、おまえ大丈夫か?」

「――うん」

「でも何で……。なあ、何かあったのおまえたち。いや、そこらへんはいいや。とにかく、もう一回ちゃんとあいつと話せよ。なんなら俺も一緒に行ってやる。必要なら俺も一緒に頭下げるから」

 混乱しながらも、いかにも必死に言葉を繋ぐ琉樹に、楓花が返したのは、

「いい」

 何の迷いもない即答だった。

 とたんに琉樹は眉間に皺を寄せ、

「は? 何言ってんのおまえ。俺、前にも言ったろ。国中探してもあれだけの相手はいないって。そんな簡単に――」

「大兄には関係ないでしょ!」

 自分でも驚くほどキッパリと言い切っていた。またしても息を詰めた琉樹は、今度はみるみる眦を上げ、

「ああ、そうかよ。ったく、人の気も知らないで揃いも揃って勝手なことばっかり言いやがって。もうおまえらなんか知るか、好きにしろ!」

 そう吐き捨てると、踵を返した。そうしてそのまま香山に帰ってしまったのだ。


「お二人は、えーそうですね、ちょっとだけ揉めてました。あ、でも殴ったり蹴ったりとかはなかったので安心してください」

 後日珪成がそう報告してくれた。引きつり気味な笑顔に胸が痛い。「本当にごめんなさい」と頭を下げると「僕は何にもしてないんで」と返されてしまったのだけれど――実は鈴々に話を聞いて知っていた。

 彼女曰く――。


「ちょっと! 師兄、やめてくださいっ!!」

 早朝、大きな声がして目が覚めた。

 方角は客房。前夜、大酒を飲んで寝こけている主と客人がいるはず――今の声は珪成? あのコがあんな大きな声出すなんて――しかも声、裏返っている。

 これはただ事じゃない! 鈴々は寝衣に上着を羽織り、小走りで客房に向かった。珪成の切羽詰まった声は、止むどころがますます大きくなっていく。

 客房に着いたら、驚愕の余り固まってしまった。

 床には割れた酒器やら皿が散乱していて、「お願いです師兄、落ち着いて!」珪成が喚きながら琉樹の背に取り縋っている。

「いいんですよ珪成、琉樹の好きにさせてください」

「医生、何言ってるんですか。早く逃げて!」

「ああいい度胸だ。珪成、いいから放せ」

「絶対に放しません!」

 そうは言うけれど、それでなくても珪成と琉樹には体格差がある。しかも琉樹の目は明らかに血走っていて、正気にはとても見えなかった。珪成が押さえ込める時間は、もう余りない。

 この家には祖父しかいないし(しかも寝ている)、もう、ここで私がなんとかするしかない! 鈴々は必死に辺りを見回して――。


「で、ぶっかけちゃったんです。花瓶の水」


 花瓶って――たしか桃の切り枝を挿していた、あの壷のこと? 膝下くらいはある、結構な重量のものだったと思うんだけど……。

「そしたら三人はしばらく呆然としてたんですけど――琉樹さまが『おまえとは絶交だ!』と怒鳴って出ていかれちゃったんです……」

 その足で大兄は自分を訪ねてきたんだろう。


「なんです? 思い出し笑いですか?」

 志均に言われて、楓花は自分が笑っていることに気づいた。

「ええ、ちょっと……」

 『絶交』を宣言したばかりの相手に対して、『一緒に頭を下げようか』なんて。

 私がお願いしたら、一体どうするつもりだったんだろう大兄。


 でもきっと――気まずい顔をしながらも言うとおりにしてくれたんだろう。




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