巻の四「露呈」

第32話「知った顔」



「大丈夫ですか小姐おじょうさま。どうぞこちらにお座りを。敷物も敷きました」

「ありがとう、気が利くわね。それに比べて――あなたは扇いだりお水を用意したりしてくれないのかしら、小姐であるこの私に」

「おまえ――ぶっとばすぞ」

「ちょっと師兄、こんなところで騒ぎを起こすのはやめてください! なんのために僕がこんな格好をしてると思ってるんですか!」

 しゃがみこんだまま勢いよく振り返ったとたんに踊る長い髪。背後に突っ立つ琉樹を睨み上げる目にも、彼にしか聞こえない声で抗議する口にも、ほんのりと紅がさされている。そう、珪成けいせいは女装していた。

 かくいう琉樹りゅうじゅも、いつもの膝下丈の上衣と褲子ズボンに合わせるのは、革の腰帯ベルト靴子ブーツではなく、布の帯と、庶民の間で流行している木履げただ。そしていつもよりきっちり結い上げた頭には、竹の笠。

 ここは温楽坊の柳邸前。

 楓花ふうか、琉樹、珪成の三人は、柳邸前の通りを挟んで正面にある大きな柳の木の下にいた。

 「小姐」と呼ばれた楓花が根元に座り、口元を手絹ハンカチで押さえる彼女を心配げに窺うのは珪成。二人の傍らに立っているのが琉樹だ。

 そんな彼らの姿を、垂れ下がる柳の枝が覆い隠している。


 なぜこんな様子でいるのかといえば――話は数刻前に戻る。


「よし、じゃあ行くか」

 珪成が志均しきん邸に現れたのを待って、琉樹が出かけようとしたとき、

「どちらへ?」

 そう声をかけて兄弟の足を止めたのは、主たる志均だった。

「どこって、温楽坊だよ。昨日そう言った………ってなにその、冷やかな目」

 琉樹の言葉を受けて、志均は大仰なため息を一つ吐き、

「琉樹あなた、山奥でと暮らしてるうち、頭もとしてしまったようですね」

「は? 何だとおまえ、ぶっとばずそ!」

「あなた先日、陳丁の手下を相手に大騒ぎしませんでしたか? 柳と陳丁が繋がっているかもしれないという話をしているのに、のほほんと姿を晒して当の手下と鉢合わせしたら、どうするつもりなんですか!」

 そうたたみかけられ、琉樹はぐうの音も出ない。

「――じゃあ、どうしろっていうんだよ!」

 口ごもりながらやっとのことでそう言った琉樹に、志均はにっこりと笑いかけ、

「それはですね……」


 で、コレである。


 二人連れの印象を払拭するため楓花を伴わせてどこぞの小姐に、珪成はその侍女、琉樹は家の下男として二人に従うという態である。今は気分が悪くなった小姐を木陰で休ませている――風で柳邸の様子を窺っている。


「あんまり人通りがないわね……」

 口元を隠しながら、チラチラと柳邸を窺いながら楓花は言った。それに珪成は頷き、

「ええ。でも見かける人はほぼ間違いなく柳邸に入っていきますね」

「他には住宅どころか建物もあんまりないからな」

「でも入っていく人たち、色つやのいい、いかにも有金おかねもちだったり、痩せ細った酔っ払いだったり、年齢も色々ですよね。一体どういう繋がりがある人たちなんでしょうか」

「そうよね。普通の家に見えるんだけど。――それにしても、水沿いだからかしら、虫が多いわね」

 言いながら楓花は袖を振る。「小姐、私が」珪成はそう言って、楓花の周辺を払い始めた。侍女姿がすっかり板についている。

 「女の子の格好するんですか、僕が!?」珍しく眉間に皺を刻み、すっかり身体が引いていた珪成だったのだが、背格好が似ているということで衣裳を用意してくれた鈴々が、「せっかくだから取って置きを貸してあげる」の言葉とともに出してきた柘榴色の裙子スカートを見たとたん、「これ、すっごく流行ってますよね。やっぱり綺麗な色……いいんですか!?」とやや前のめりになり、着つけが終わってみんなに「かわいい」「似合う」と褒めそやされ、また鏡に映った自身の姿も気に入ったようで、春の蝶のように軽やかにここまで来たのだ。「だってせっかくなんですから、楽しんだ方がいいじゃないですか」と言いながら。

「夏はさぞかし蒸し暑いんでしょうね、小姐」

「きっとそうね。それに、大雨でよく浸水してるわよね、ここらへん」

 額を突き合わせてひそひそ言い合うさまは、もう女子二人にしか見えない――それを琉樹は苦い顔をして見下ろしている。

 さてこの温楽坊、東西の長さが約五百メートル、南北はその半分ほどの長方形の坊である。他の坊と同じく、内部は東西南北に走る小街で四分割されていた。楽水で南北に二分される楽南の中で、北街に位置する。

 皇帝の避暑地たる離宮と官公庁街たる皇城を有している北街は、南街より有金が住む、というのが一般的だが、この温楽坊は少々事情が違っていた。坊のすぐ南に楽水が流れているため居住地としてはいささか難があったのだ。同じく楽水の畔にある並びの坊も官園やら魚の養殖池やらが置かれていて、住居はまばらだった。

 しかもここ温楽坊は城内の最東に位置しており、最西にある皇宮からは最も遠い。

「そりゃ、人は住みつかないだろうな。普通なら」

 そう言う琉樹を、楓花と珪成は揃って仰いだ。

「住まいとして不便だということを差し引いても、なお余る利便があるヤツもいるってことだ。まず――この人目のなさ。秘密事にはむいている」

 そして楽水と、それに繋がる渠水(運河)を使えば、城内外への移動は容易。しかも楽南の繁華街である北市も近い。

「状況的には色々怪しいんだよな。こんな、ロクに人のいない場所だってのに、なんだって門番がいるんだか。しかもあの門番、目が怖いし」

 柳邸が面している小街は十歩(約十四メートル)余りの幅があるため、声が聞こえる距離ではないはずなのだが、その門番がまたしてもこちらを窺っている。

「小姐、もう少しお水飲まれますか!」「日も落ちてきましたし、もう少しお休みになったら行きましょうか、――な、何なら俺が、お運びしますよ!」兄弟が図ったように声を張り上げると、門番はふいっと視線を外した。そうして再び往来に目を向ける。

「あの警戒ぶり。武挙人でヤバい噂の多い熊男の家に押し入る物好きが一体どこにいるっていうんだ。怪しすぎだろ」

 三人はちょっとばかし寄り合った。珪成が少し声を潜めて、

「熊と言われるからには結構な大男なんでしょうね、柳は」

「じゃあ力持ちで、頭も悪くはないってことよね。だって挙人さまなわけだし」

「それがそうでもないらしい。武科挙はより重い岩を持ち、重い弓を引け、重い刀を振り回せることが良しとされる実技試験重視で、知識試験はあくまで形式って話だ。そこを重視すると受かる奴がいないってな。ま、頭に自信があるなら文科挙を受けるだろう。だいたいこの平和な御時世で武人が名をあげられるような戦はない。文人になった方が、よっぽど将来有望で尊敬されるってもんだろう」

医生せんせいもそうおっしゃってましたね、そういえば」

 科挙が文人科挙の代名詞となっていることが示すように、武科挙は余り重んじられなかったようである。本来武官は、実戦を積み功績を上げて行くもので、武科挙に合格したからといって使い物になるかは別問題。叩き上げの者たちからは冷笑はされても尊敬されることは稀で、名誉ある閑職が与えられるのが常である。

 もっとも志願者はそのことを十分承知の上で受験をしているのだろうが。

「あ、誰か来ました」

 珪成の声に、楓花は額の汗を拭くふりをして顔をあげる。――あれ? なんか、見覚えが……。

 息を呑んだ。

「ちょっと、あの人って!」


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