第31話「再度」

 凍りつくような沈黙が落ちた亭台に、僅かに鳴る風の音さえ重い。

 どう、しよう。どうしたら……楓花が必死に頭を巡らせていると、 

「ああもう」

 大げさなため息が響いた。

「その手で割れ物片付けるって? もし怪我したらどうすんの? そんな手で患者診れるって? ――はい終わった」

 そう言って立ち上がった琉樹の手には、割れ物をくるんだ蛋糕の包み紙があった。

「あんなクズ兄貴に呑まれた挙句、仕事まで放棄する気かよ。ちっとは世間を知ったかと思ってたのに……。まったく、育ちのいい公子おぼっちゃんは、これだから」

 思いっきり嫌みったらしく吐き捨てると、琉樹は欄外で立ち尽くす二人に目を投げ、

「で? いつまでああさせとくんだよ。小妹が動かないと、珪成も動けないんだけど」

「――ああ、そうでしたね」

 志均は目を伏せて小さく笑うと、さっと顔を上げて大股で楓花たちに近づく。

「すみませんでした、窮屈な思いをさせて。――さあ」

 両手を差し出され、息が一瞬止まった。

 とてもじゃないけどまともに顔を見られない。思わずうつむいて、だけど「えいっ!」と自らに言い聞かせて、楓花は思いっきり両手を伸ばす。

 両脇から腕が差し込まれてふわっと体が宙に浮いた。爪先に土とは違う確かな感触があって、目を開けたらそこは亭台の、石畳の床だった。


 身体は瞬時に離れた。


 「――嫌なことを、思い出させましたね」自分にしか届かない小さな声。

 だけどたちまち体が強張る。もうずいぶん昔のことなのに、まだ日も高くて風も温いのに、あの極寒の夜が思い出されて身震いがする。あの、耳障りな高い声が吐いた言葉が耳の奥に響いて、息がつまる。


 だけど、私なんかより――。


 楓花は顔を上げ、

「いいえ、私は大丈夫です!」

 引きつっていないことを祈りながら、楓花は精いっぱいの笑顔を作ってみせる。

 それに志均はうっすらと笑い――ふっと目を投げた。そこには欄干を越えてきた珪成の姿があった。

 志均は珪成に笑いかけると、

「あなたが、私のことをあたかも聖人君子のように見ていることは知っていました。だからこそ、それを裏切りたくないと努めてきたつもりです。――でもね、所詮こんなものなんですよ、私は」

「あの……、僕」

 そこで少し言い澱み、珪成は俯いた。

「医生のこと――本当に綺麗な方と思っていました。溢れる才があって衣食住にも困ったこともないなら、人を羨むことも妬むことも――まして盗んだり騙したりする必要もない。だからいつも穏やかに笑っていらっしゃるんだなって。だけど自分は……ってずっと思っていました。でも」

 顔を上げた珪成は、何の衒いもない笑顔だった。

「今、本当によかったって思ってます。医生がすごく近くなって、もっと好きになりました!」


 ――やっぱり凄腕。


 楓花はそっと目を外してそんなことを思った。

 ちょっとは見習った方がいいのかな。でもこれは、珪成だから許されるのであって、そうでなかったらなんか大変な事態を招きそうな気が……。

「おいちょっと待て、珪成はやらんぞ」

「それを決めるのは珪成でしょう? いつまでも山中深くで修行だなんて悠長なことを言っていると――知りませんよ。ねえ、珪成」

「はい」

 にこにこと顔を見合わせている二人を見て、琉樹は派手に舌打ちする。楓花はその様子をみて苦笑するしかない。

 「あーあ」琉樹は息を吐きながら院子に目を投げ、

「しっかしあの人も相変わらずだな。見たかあの格好? 長袍長袴に靴子ブーツ、それに胡帽(底辺が捲れ挙がり、尖った頂点に小さな毬を乗せた三角形の帽子)ときた。思いっきり流行はやりにのってるけど、あれって体格いいヤツなら勇ましくていいけど、ああいう痩せぎすには似合わないんだよな。最初見たとき稲草人かかしが歩いてきたと思ったぜ。いい年なんだから新しいもの飛びつくより自分に合うものを探せばいいのに。ま、それがあの人の面白いところなんだけど」

「そんな暇があるから、いつまでも受からないんですよ」

 冷たく吐き捨てられた言葉に琉樹は笑い、

「ああ、そうね。しっかし殊勝なものじゃないか。『恩蔭』も使わず金も積まず、真面目に試験を受けてると言うんだから。泣けるね」

 『恩蔭』とは高級官吏の子弟が、推薦によって官吏に登用される制度のこと。ただし親より上の階級に行けないという制約がある。公平を謳う科挙ではあったが、金と人脈である程度どうにかなる部分は、やはり存在していた。

「父親が許さないのでしょう。潔癖な方でしたから」

「なるほど。それにしても――茶の一杯くらい、出してやればよかったのに」

「そうですね。砒素でも混ぜてやればよかった」

 楓花と珪成がいびつな笑みを浮かべて動きを止めた傍らで、琉樹はため息混じりに苦笑し、

「おいおい、せめて笑い薬にしといてやれよ」

「あなたは相変わらずお優しいですね、見かけによらず」

「は? おまえには俺はどう見えてるわけ?」

 不満を露わにする琉樹に、志均はくるっと背を向けて、 

「――さあ下りましょうか。風も涼しくなってきましたし。ではすみませんが珪成、卓上のものを持って来てもらえますか? 琉樹は割れ物と、珪成のお手伝いを。ああ、楓花は何も持たなくていいです。これ以上、割れ物が増えたら大変ですから。あなたは私の後に」

「……おまえが割れ物を作ったんだろうが」

「何か言いましたか、琉樹?」

 振り返った志均は、穏やかに笑っていた。いつものように。

「……いいえ、何にも」

「そうですか。では、みんな行きましょう」


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