第7話「あの日」

 視線と同様の冷ややかな声に、琉樹は「そいつはマズい」と慌てて、今朝綺麗に梳いてもらったばかりの髪を乱し始める。乱しながら、

「おい、珪成に余計なこと言うなよ」

 志均は大げさにため息をつき、

「ホント、珪成には甘いですよねえ。珪成は珪成でまるで犬みたいにあなたを慕ってますし。実は親子ですか?」

「おい! 珪成を犬呼ばわりするな!! だいたい、いくら俺でも八つで仕込みはできねえよ。お前だったら――十二か。まあ、いけるな」

「……。とにかく、私の身にもなって下さい。天天が行って五日も経つのに、あなたが来ない。何か連絡はないかと毎日珪成が訪ねてくるんですよ。楓花にも責められるしで――」

「おい!」

 志均の言葉を遮った琉樹の大声は、扉に向けられた。忽ち女童が現れる。

「何か御用がございましたか?」

「ああ、水を持って来てくれ。多めにな」

 快諾し、軽やかに身を翻す女童を横目に、志均は不思議そうに問う。

「水? どうするんです」

「飲むに決まってんだろ。珪成に会う前に、少しでも酒を薄めておかねえと」

「――本当に妬けますね」


 ほどなく二人は外に出る。琉樹はたちまち眉をしかめ、

「城内は埃っぽくて敵わんな。清涼な地に暮らす俺としては辛いものがある」

「よく言いますよ。ここで散々俗世を楽しんでいたくせに」

 老若男女や貧富、国籍さえ問わない数多の人が往来する市内、怒声に笑声、歌声に煉鉄の音、芳香も悪臭も雑然とし、それは賑々しい。日はまだ高い。

「いいですね、南市は。北市とは違う活気があります。猥雑と言いましょうか」

 見るからに質のいい深衣を品よく纏う志均に対し、可動性を重視した、狭い袖の荒い布の上衣と褲子の琉樹、一見主人と使用人のようである。だが、

「ここで猥雑とか言うな。これだから北街に住む金持ちは……」

 志均の言葉に対する琉樹に、容赦はない。


 東西に走る楽水で二分された楽南城内の北を北街、南を南街と呼ぶ。楽水を挟んで南市の対称にあるのが北市、こちらもやはり都一の繁華街である。北街はその最北に宮城を抱えていることもあって南街より懐豊かな者が住む傾向があり、同じ繁華街でも自然違った雰囲気を醸し出している。

 志均が『猥雑』と称した南市は、南街の姿を凝縮したかのように様々な人が集まっていた。老若男女も国籍も無関係に。だから様々な物が集まる。本来出入り禁止であるはずの高官らも姿をやつして密かに出入りするほど、ここには何でもあったのだ。何でも。


 雑踏をぼんやり眺めながら、誰とはなしにふと志均が呟いた。

「ここに来るたび思い出します。三年前のあの日のことを」

「……。ほら、ぐずぐずしてると日が暮れちまう」

 聞こえなかったのか、琉樹はそれには応えず、そして自分が散々遊んでいたことを忘れたかのように志均をせかす。これには志均もさすがに苦笑。しかし黙って、馬に跨がった。


 晴天続きだった楽南城内は乾いていて、城外へと萌しかけた春を探しに行く豪商や貴族らの車がたえず行き交うものだから、南市の数坊南にある『元弘寺』に辿り着いた時には、二人も、乗っている馬も砂まみれだった。

 山門脇の大きな松樹に馬を括りつける琉樹の横で、志均はせっせと衣を叩いている。舞い上がる埃塵は、なかなか収まりを見せない。

「これだから育ちのいい公子おぼっちゃんは……」

 とたんに志均が鋭い一瞥を投げる。「おっと」琉樹は思わずとばかりに声をあげ、視線を逸らした。「だからその目はやめろって、怖いから」

「あなたがおかしなことを言わなければいいんですよ。――だいたい、汚い医生に、どんな患者が来るっていうんです。さ、綺麗になりました。では行きましょう」

 その時、琉樹の肩でおとなしくしていた白鳩が突如飛び立ち、頭上の中門向こうの境内へと吸い込まれていった。


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