第6話「清濁の間」
志均が一つを手に取ると、琉樹も残りを目の上に上げる。カチリと澄んだ音が響いた。
「おや、この夜光杯は本物ですね。お手ごろ価格品ではありますが。おまけに生意気にも剗焼肉を置いてるんですね。ずいぶんとこじんまりとした店だというのに」
いつの間にか琉樹の
「へえ、なかなかいける」
その姿に、琉樹は信じられないものを見た、といわんばかりの表情を見せ、
「うわー、そんな卑賤な料理を口にするなんて、お前も随分変わっ……あっ、これなんかも美味しいと思いま……いや、思うぜ」
琉樹の言葉に、にわかに志均の目が鋭くなった。琉樹はたちまち表情を改め、また言葉に詰まりながら、あたふたと別の皿を差し出した。それに志均は素直に筷子をつけ、
「本当だ。美味しい」
そう言うと、いつも通りの人のよさげな笑顔を見せた。琉樹はひそかに安堵の息を吐き、
「気に入った? あー、よかったよかった」
更に筷子を進める志均を見て、琉樹は引きつった笑みをみせながら何度も頷いた。だがふと笑みを収め、
「ところで、何でここが分かった」
その問いに、志均がふいっと目線を投げる。窓の向こうに走る朱の欄干に、足に赤布が巻かれた一羽の鳩が止まっていた。その白さが、まっさらな青空に雲のようである。
「なるほど」という琉樹の呟きは、外からの喧噪に埋もれてしまった。
正午を過ぎて間もない南市は、店が開いたばかり。仕事帰りの官吏も流れて来、様々な音や匂いが入り乱れ大変な賑わいである。隣室からは琴音が流れ出した。
「とっくに
「そりゃあ――香山なんて片田舎に住んでるんだ。さっぱりしてから顔を出さないと」
「誰もそんなところに行けなどとは言ってないじゃないですか。楽南から南東に一四〇里も離れた、そんな片田舎なんかに」
皮肉たっぷりの言葉に、琉樹はむきになって、
「田舎って馬鹿にすんな。あそこには世俗を嫌った貴族や寺院の邸宅がたくさんあるんだ。高貴な空間と言って欲しいね。今でも伊水の両岸に彫られ続けてる仏像を見てると、心が洗われるんだ」
「とか言って、こーんな世俗的な店で遊んでいるんですね」
もはや琉樹からの反論はなかった。
ちなみに伊水の両岸に万と彫られた仏像群は、今や世界遺産として世界各国から多くの人々を呼び寄せているが、それは後の話。
さて、そこで志均は大きくため息をつき、
「髪を伸ばす、俗衣をまとう。だけでなく般若湯は口にするわ、妓楼には上がるわ――誰が貴方を仏僧と思いましょう。そのうち僧籍を剥奪されますよ。そうなったら、あなたを育てた老師がどれだけ悲しまれるか」
「向こうではちゃんと経を上げて僧らしくふるまってるぞ、あんな破寺で。有髪僧なんぞ今時珍しくもなんともない。髪を下ろしたら、麓のご婦人方が泣く。それに、あの
この頃の出家には国家試験の合格が必要であった。一たび僧籍が手に入れば、納税・兵役の義務はなく、普通に生活するのに十分な額を国から支給されるなど様々な特典を得ることができた。
そのため殺到する志願者の中には、心から仏門への帰依を願う者よりも、生活の困窮からその道を目指す者の方が遥かに多かった。とはいえ望む者全てを出家させては国家財政の圧迫になる上、仏教の凋落を招くため、僧籍を得る試験は大変な難関となっていた。
だから当然、僧籍は僧にあるまじき行いがあれば剥奪されるべきものであるが、すでに数多の取得者がいるため監視が行き届かず、半ば公然と僧籍の売買が横行していた。
「ま、それは別に構わないんですけど……」
志均の声調がにわかに下がったことに、琉樹は不審げに隣に目を遣る。
志均はその目を冷たく見返しながら、
「でも、さっぱりし過ぎじゃないですかねえ――珪成も今年で十一。あなたがどこで身なりを整えて来たか、充分察しがつく年です」
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