第5話「南市」

 帝位を狙った皇后・公主母娘の謀略を見事に押さえた若き皇帝の治世は半ば、のちに彼を破滅の道へと導く妖女はまだ民間にあり、壮年の皇帝が情熱を持って政治に取り組む今は、平和で温和な、まさしく国の最盛期。


 楽南は、周囲に一丈八尺の城壁を巡らした方形の都市で、中央を流れる楽水の支流により南北に二分されていた。国都・永寧の東千里(1里は約500メートル)に位置する副都である。

 城内西北角に宮城(皇帝の執政・居城の場)、と皇城(官公庁街)を置き、他の空間を縦横に走る大街が碁盤状に区画した。碁盤の目は坊と呼ばれ、高さ一丈(約三メートル)ほどの土壁で囲まれたその内に人々は住まいや店を構えたのである。


 ここはそんな楽南一の繁華街・南市にある、某店内。

 階段を上がり切り、長い廊下をスタスタと進んでいくのは志均である。その背後から、ドタドタと派手な足音を立て、乱した息を整えることなく階段半ばから女が叫んだ。

「困りますお客様、こちらは誰も通さぬようにと言われておりますから!」

 そこでピタリと足を止め、志均は振り返った。手すりに縋りつくようにして、息も絶え絶えに階段を上がってきたのは、恰幅のいい中年女性である。志均は彼女ににっこりと笑いかけると、

「いいのですよ女将、私は例外ですから」

 そう言って、再び歩を進め始めると、「ちょっと」という慌てふためいた声と荒い足音が続いてきた。

「お客様!」

 廊下の突き当たり、金切り声とともに、朱の扉が乱暴に開かれた。

 とたんに止む琵琶の音。弾き手も、玻璃の瓶子を手にした女も驚いた顔を向けていた。色鮮やかな二人に挟まれた青年一人だけが、平然と、深い緑色をした高杯を傾けている。彼は、膝下丈の上衣に褲子ズボン、革の腰帯ベルトという都中で大流行する胡服。傍らに脱いであるのは、これまた流行の革の靴子ブーツだ。

「ここでしたか、随分探しましたよ」

 そんな彼に対して深衣に半臂という古風ないでたちの志均は、背後に肩で息をする女性を従え、爽やかに笑いかけた。

「人払いを命じられておりましたのに、あいすみません。お止めしたのですが」

 そう言い訳を並べる女性を振り返り、志均は穏やかに笑いかけ、

「お気になさらず。私は例外ですから」

「――お前だけを通したくなかったのに」

「何か言いましたか? 琉樹りゅうじゅ

「いいえ、何にも」

 慌てて志均の言葉を打ち消したのは、一睨みで男を黙らせ、一瞥で女の胸を打つような凄みと涼しさを併せ持つ切れ長な目が印象的な青年。

 日に焼けて少し赤茶けた髪は、そのほとんどを頭頂でまとめてはいたが、少なからぬ量が顔の両脇を流れて肩口まで垂れ下がっている。中肉中背の志均よりは一回り大きく、腕っぷしでは間違いなく彼を圧倒するであろうに、琉樹と呼ばれた男は何故か諦めたようにおとなしく杯を嘗めていた。そしてため息をつきながら肩に掛かった髪を払うと、

「お前ら、もういいから下がった下がった」

 興ざめしたように、その左手をひらひらと左右に振る。すると、

「ええっなんでー。私の琵琶と琉樹の笛を唱和させる約束だったじゃなーい。ひどーい」

「そうよそうよ。そっちの大哥にいさんも一緒に飲みましょうよぉ。大哥もまたいい男じゃない」

 瓶子ボトルを手にしていた女が立ち上がり、扉に寄る志均に近づいていった。今流行っている西域の女人よろしく肌の透ける羅衣をまとい、肌は脂粉で白く塗りたくっているが、黒い髪と目は隠しようがない。間違いのない唐人である。

「ね、一緒に飲みましょう」

 上目使いに、甘い声。指が、さりげなく志均の腕に触れた。

 すると志均は穏やかな笑みをたたえたまま、柔らかくその手を外し、

「申し訳ございません小姐おじょうさん、貴女のような艶めいた女性を見ては、純朴な婚約者とを比べてしまい、辛くございます。ここはどうぞご容赦を」

 その言葉に、琉樹ははしたなくも口笛を鳴らしてみせる。

「あら婚約者様がいらしたの? 残念だわ」

「でもたまにはこういうところでウサを晴らせば、婚約者様にも一層お優しくできましてよ。ですから」

 琵琶を持った女も加勢に加わる。そこへ、

「貴女たち、お客様に向かって何ですその口の利き方は! 申し訳ございません、何かございましたらいつでもお呼びくださいませ」

 失墜しかけた主の威厳を取り戻すように、戸口に立っていた女将が声を張り上げた。その様に、室内の二人は渋々女主人について房間を出て行く。が、去り際、志均に思わせぶりな一瞥を投げることは忘れなかった。

 扉が閉まる。大きくため息をつく志均に気づかぬように、

「久しぶりだな。確かこの前は干し柿を食わせてもらった覚えがあるから三カ月ぶりくらいか。また男前上がったんじゃねえの?」

 琉樹、と呼ばれた男がにこやかに杯をあげて見せた。それに対して志均は肩をすくめ、

「それは当然として――。まったく、昼間から、いいご身分ですねえ」

「言うだろ? 花を愛でるは昼がいいって」

「花ねえ……」

 志均は小卓に並ぶ小皿を見回しながら、胡座をかく琉樹の横に座りこむと、しごく真面目な顔で、

「琉樹、あなたそんなにお金に困ってるんですか? こんな粗末な料理に、口も立たず、ただつまびくだけの琵琶しかできない下品な女しか呼べないなんて。どうせこの葡萄酒も、おおかた涼州産と銘打った紛い物でしょうし――」

 そこまで言うと、「ひでえ言いよう」と呟く琉樹から杯をさらう。とたんに顔を顰め、

「ほら、香りづけにも入っていない。何なら用立てましょうか?」

「――この悪党。医者で暴利を貪ってるくせに、金貸しまで始めやがったのか」

「暴利だなんてとんでもない。有るところから然るべき対価をもらっているだけですよ」

「『有る』ところからねえ」

 琉樹は小さくため息をつくと、にわかに声をあらげて、

「いーんだよ、あれくらいのがかわいげあって。それに――山奥の禁欲生活が長いから、なんだって珍しいしありがたい。安い葡萄酒だって最高級品の涼州産だと思えば、そうなる。『唯だ識のみ』法相宗の教えだ」

 そう言って、琉樹は志均の手から杯を取り返し、一気にそれをあおった。

「都で今隆盛を誇っている、かの三蔵法師が祖の宗派ですね。――でも『唯識論』ってそんな教えでしたっけね?」

「ったく仏教徒でもないくせして。みんなこれでなんとなく納得してくれるってのに、誤魔化されてくれないから、お前はイヤだ」

 琉樹は苦い顔をして、空けた自分のものと、女用に用意された未使用の二つの杯に、深紅の液を注ぎ込んだ。濃淡の緑色が幾重にも重なって流れるような模様を描く鉱石の高杯ワイングラスだ。

 

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