第4話「總角の少年」
『元弘寺』
朱色の禿げかけた門に掛けられた扁額にはそう刻まれている。以前は輝いていたのだろうと思われる金文字は、埃に埋もれて鈍く光るのみで扁額も心なしか傾いている。
門をくぐると続いている参道は両脇に鬱蒼と茂る松樹のおかげで、まだ昼だというのに薄暗い。珍しくもない鳥の鳴き声にさえビクついてしまいそうな不気味さだ。
石畳の道をしばらく進むと、二人並んで行くのは難しい狭くて急な石段が姿を見せる。石は所々崩れて湿った土を覗かせており、門同様に、寂れた雰囲気を醸し出している。ここを廃寺だと思う者が少なくないものも道理と言えるだろう。
しかしよく見れば、松の根元を埋め尽くしている濡れた落葉は、石段にはない。掃除が行き届いているのだ。だがそれでも、年中湿っている階段はすこぶる足元が悪い。
「気をつけて」
先に立った志均が、そう言って楓花の手をとり石段を登り始める。それに引かれるように楓花は足を進める。
とはいえ、心臓はバクバクだ。こうやって手を繋がれたり、肩に手を回されたりする。本当になにげなく。『婚約者』を守るのは当然だと、さらりと示されている。本当にありがたい。だけどそれ以上に、余りにも恐れ多い。ありえなさすぎて、今でも「これは現実なんだろうか」という気持ちが拭えない。
志均さまにこうやって優しくされるにつけ、嫁ぐまでにはどうにか見れるようにとやっきになって色々教え込もうとする義両親を見るにつけ、戸惑いを覚える。身の置きどころがない感じがする。夢じゃないかと頬を何度もつねった。そのたび柔和な微笑が「どうした?」と覗き込んできて顔が熱くなる。柔らかな物腰、優雅それでいて自信に満ちた挙措、そして知性と品が滲み出る端正な顔立ち――非の打ちどころがない彼に、こうも大事にされて嬉しくないはずがない。
簪礼(成人式。女性は十五歳)を終えてすぐ婚約を結んで、一年になる。だけど今だって涼やかな目を向けられると思わず目を逸らしてしまう。指先から伝わる体温で身体が火照る。聞こえてるんじゃと心配になるほど心臓が高鳴る。
今みたいに――。
「危ない!」
声にハッとすると、置いたばかりの右足の下で石が崩れた。滑った足で支えきれない身体が前のめりに倒れる。だけど。
とすっと優しく受け止められる。いつものように。楓花は、無様なほど慌てふためき、
「すっすっすっすみません、志均さまっ!」
「だから気をつけてっていったでしょう?」
暗がりでも隠しきれないんじゃというくらいに赤くなった顔を見られたのかもしれない。志均は面白そうに笑うと、しっかりと掴んだ楓花の両腕を押し返してから、ゆっくりと手を放す。そうして、再び、今度は先ほどより強く楓花の右手を握り直すと、
「足元だけを見ていなさい。私が引いていきますから」
頭上から投げられる柔らかな声に、楓花は伏目がちに頷く。どうして私って――顔は熱いやら、鼓動は煩いやら、自分が恥ずかしいやら情けないやらで、顔が上げられない。
それからしばらく、ただただ石段を踏む音と少し上がった呼吸音だけが辺りを包む。
やがて、見えてきた石段の果てに中門が見えてくる。あの向こうは人のいる境内だ。
中門は入口の南門以上に寂れた小さな門で、扉は片方が外れかけていた。楓花が、足を止めた志均の横に並び立つと、すっと手が外れる。外れた手に背中を押されて、楓花は境内に足を踏み入れる。薄暗さに慣れた目に、開けた空間は光に満ちていて、眩しい。思わず目を閉じた。すると、
ピィーヒョロー、ピィーヒョロー。
天空高くで悠々と旋回する鳶が、高く澄んだ声で鳴いた。その声に惹かれるように、楓花は何度かの瞬きのあと、ゆっくりと目を開ける。すると中門の正面にある本堂の前で、髪を二つ分けにして頭上で丸く結い上げた
手狭な境内には、冬の名残を思わせる枯れた色合いがまだ残ってはいるものの、あちらでは海棠が新緑を吹き、そちらでは木蓮が白の大輪を咲かせ、こちらでは蝋梅の黄花が開いている。時は春分を迎えたばかり、青空の下行き渡る風が手を悴ませることは、もうない。
「
志均が声をかけると、楽しげに鳶を眺めていた少年が一転、表情を改めてこちらを振り返った。声の主を見た途端、大人びた表情が、幼さを感じさせる明るいものにかわる。
「
せっかく集めた塵の山を踏み散らかして少年――珪成――は駆け寄ってくる。胸にかかる香木の念珠が、辺りによい香りを放った。
「一月ぶりですね珪成、元気そうで何よりです。老師は如何お過ごしですか?」
「おかげさまで老師もお元気です。あいにくただいま外出中ですが。楓花さんも、お久しぶりです。相変わらず仲がおよろしいんですね!」
見上げてくる笑顔は、たいていのことは許してしまえそうなほど邪気のないものだ。大きな目が印象的な珪成には總(あげ)角(まき)がよく似合う、かわいらしさがあった。ちなみに医生とは医者に対する敬称である。
「今日はどうなさったのです? この近くに往診が?」
「いえ。実はね天天をお借りしたいんです」
志均の言葉に、珪成の笑顔がさらに明るくなる。
「じゃあ
期待で目をキラキラさせて見上げてくる珪成に、志均は目を細めて、しっかりと頷いてみせる。
「分かりました!」
弾けるような声で答えると、珪成は軽やかに身を翻し、左手の親指と人差し指を唇に銜えた。天空に力強い音がまっすぐ伸びていく。ほどなく、羽音が近づいて来た。
「珪成、ホント嬉しそう」
「まったくです。私たちとは較べものにならない喜びよう、妬けますねえ」
志均がそう笑いかけてくるのに、「本当に……」と答えながら、楓花の胸は少しだけチクリとしていた。こちらのやりとりなどまったく耳に入らぬように、懐から取り出した赤い布を一心に細く裂いている珪成が、何の衒いも遠慮もなく「彼」を慕う気持ちを露わにするさまは本当に微笑ましくて――少し羨ましい。
やがて碧空にポツンと現れた白点が、鳩になって、すうっと珪成の肩に止まる。彼は、その脚に素早く赤布を結び付けると、右手に鳩を移動させ、それを大きく空に振り払った。
「天天、さあ行け!」
放たれた掛け声とともに飛び立った白鳩は、やがて青に呑みこまれて、消える。楓花は鳩が目指す南の空を、少しだけ爪先立って、いつまでもいつまでも見つめていた。
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