巻の一「大切な人」

第3話「婚約者」

 岩や花木が一見自然に、しかしよくよく見れば絶妙な具合で配された庭園は、築山の頂上にある六角形の亭台から一望できる。柱の丹色によく映える瑠璃色の瓦が、麗らかな春の日差しをきらりと跳ね返すその中では、老若男女四人が、甘く香る蝋梅が盛りを迎えている初春の風景を眼下に、ゆったりと昼下がりの茶を楽しんでいた。

 彼らはみな常服ではあったが、巷で流行している上下別の胡服ではなく、上下が縫い合わされた昔ながらの深衣であり、それが彼らの品のよさに妙に似合っていた。

 

 ――ただ一人を除いては。


 ガッチャン!


 突然、管弦楽の優美な音が聞こえてきそうな雅な時をぶち破る無粋な音が響き渡った。

 取り落とした青磁の茶器は幸いにも割れなかったものの、器に満ちていた烏龍茶は、蓮の花をかたどった石作りの卓上に、見事なまでにぶちまけられた。

 やってしまった――紅梅色の深衣から黄色の裙子スカートを覗かせ、少女は硬直していた。はっきりとした明るい色の衣装は、透き通るような彼女の白い肌に見事に映えている。長い手足といい、茶色がかった目や髪の色といい、異国の血が漂い見える少女だ。

 とびきりの美人ではないが、柔らかい笑みと容貌は、それと同じくらいにちょっと人目を惹く魅力がある。

「まあ、お召し物が! 志均しきんさま、申し訳ございません。娘がとんだ粗相を」

少爺わかさま、これは大変な失礼を。楓花ふうか、何をぼんやりしている! 早くお拭きしないか!」

 両隣の老親が青ざめている様子にハッとした娘は、「いっけない!」呟きながら立ち上がり、対面の青年に駆け寄った――つもりだったが、慌てすぎて深衣の下に穿いた裙子の裾を踏みつけてしまった。

 両手をバタバタさせる姿は紅梅色の蝶々を思わせる優雅さなどもちろんなく、無論体が浮き上がったりもせず、「あーっ!」という情けない声ととも体は前のめりに、地面へ向かいまっさかさま――。


 と固く目を瞑ったら、ぐっと腕を掴まれ引き上げられる。


 激しい痛みを伴うはずだった衝撃は、温かく柔らかだった。楓花が恐る恐る目を上げると、柔和な微笑が彼女を見下ろしている。


「大丈夫?」

「ごっ、ごっ、ごめんなさい、志均さま」


 楓花は裙子と同じ色に頬を染め、椅子に座ったまま自分を抱きとめている青年・志均からあたふたと身を引き剥がす。

「『ごめんなさい』ではない! 何度言えばわかるのだ! 『申し訳ございません』だ!」

「ごめん、じゃない、申し訳ございませんっ!」

「構わない。怪我がなくてよかった」

 対する志均は、親娘を前に泰然とした様子。向けられる柔らかな笑みに、楓花もほっとして思わずにへらと笑い返す。

だが目の端に映ったのは、恐れで顔面蒼白の老母と、怒りで顔を上気させフルフルしている老父の姿。そこで自分が今、何をすべきだったかをたちまち思い出す。

 志均に改めて目を向けると、卓上の縁から零れ落ちた茶が、彼が愛用している白い半臂(袖なしの上着)をまだらな琥珀色に染めていた。握り締めている手絹ハンカチが何の役にも立たないのは一目瞭然。さーっと顔が青ざめていくのが分かった。 

 しかし志均は、手絹を握りしめたまま傍らで立ち尽くす楓花を制するように右手を軽く挙げ、「構わない」と一言。そして老夫婦におっとりと笑いかけ、

「このようなこともあろうかと着古しで参りましたゆえ、どうぞお気になさらず」

「ですが」

 なおも切迫した様子の老夫婦に、志均はさらに笑みを深くし、

「三月ぶりの『友人』の帰りに私も心が弾むのです。どうして『大兄あに』の帰りを心待ちにしている『小妹いもうと』が、喜ばないでいられましょうか。それを知りながら、茶の席でこんな話題を持ち出した私にこそ非があります。ですから、どうか彼女を叱らないでやってください。私の大切な婚約者ですから」

 さらりと付け加えられた一言に、濡れた卓上を拭いていた楓花の手が止まる。目を上げた先では、志均がまっすぐ彼女を見ていた。

「ということで楓花、元弘寺に参りましょうか。『大兄』を呼ばないといけませんからね。ああ、でもその前に着替えに一度帰らないと」

 

 

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