番外編置き場

星を数える【3】

　皇宮の部屋でテトは一人、机に向き合い座っていた。

　いくつもあるランプに惜しみなく火をつけることが許されている部屋は、夜とはいえやけに明るい。

　窓外では十六夜の月がくっきり輝き、銀砂の星はどこか色褪せて見えた。

　テトは溜息と共に、手にしていたインクペンを机上に置いた。

　学校の課題を机に広げてみたものの、どうしても気がそれてしまう。

　先刻、部屋を訪ねてきたフィシュアの姿が頭から離れなかった。

　——フィシュア 、と。

　呼び掛けたテトの声は、ちっとも届かなかった。

　驚いたというより、あんなに取り乱したフィシュアを見たことがなく、にわかに信じがたかった。

　けれども、怯え切ったその目をテトは生まれ育った村で何度も見てきた。

　怯え震える目に映るのは、避けられない行く末と喪失の予感に対する得体の知れない恐怖だ。

　不治の病を抱えていたエルーカ村では、そこかしこに溢れていた。

　自分が、あるいは近親者が咳をした瞬間、村人たちの顔は恐怖に染まる。

　ひとたび咳が出れば、高熱にさいなまれ、遠くないうちに死に至る。エルーカ村に発生した奇病が辿る過程を村人たちは皆、嫌と言うほど知っていた。

　薬が提供され、目に見えて病状が好転しはじめるまで、あるのは絶望だけだった。

　テトは母が死んだと知った時のことを思い出し、きゅっと口を引き結んだ。

　身体の芯がすぅと冷え、辺りの物音がやけに響きだす、あの訳のわからないものに閉ざされていく感覚は易々と忘れられるものではない。

　フィシュアも同じ思いをしているのだろうか。

　テトはたまらなくなった。

　あの時、二人を見送ることしかできなかったのは、かける言葉が見つからなかったからだ。

「大丈夫だ」と請け負ったシェラートの言葉は信頼に足るものだと、テトは知っている。

　それでも、大丈夫ならどうしてこんなに遅いのだろう、という思いが頭をもたげる。

　いても立ってもいられなくて、でも、どうすることもできない。

　意味なく筆箱の中身を全部取りだしては、また綺麗に収めてみたり、ガラス窓に近寄り外を見下ろしたりしてみたが、不安と焦燥が募っていく。

　暗いガラス窓に映る自分の顔をぼんやり見つめていたテトは、ちょうど部屋の中ほどに映り込んだ人影に気づき、背後を振り返った。

「シェラート！」

　テトは顔を輝かせ、シェラートに駆け寄った。

　普段、この部屋に出入りする時、シェラートはテトと同じように扉を使う。なのに、今夜はなぜ室内に直接転移してきたのだろうと疑問がよぎったが、それよりも今はフィシュアのことが聞きたくて、テトの疑念はすぐに隅に追いやられた。

　目があった途端、シェラートがほっとした顔をする。

「どうしたの？」

　いつにない表情に、テトは不安になって聞いた。

「――テト。ここに誰か来たか？」

「ううん。ずっと一人だったけど……？」

「そうか」

　答えたシェラートの声は硬かった。

　テトが続く言葉を待っていると、シェラートはテトにここから動かないよう言い含め、扉の方へと向かった。

　ただならぬ雰囲気で、わずかに扉を開き、隙間から外を確認する。

　扉を閉じたシェラートが、浅く吐き出した溜息は傍（はた）から聞いても安堵に満ちていた。

「どうしたの、シェラート？　何があったの？　フィシュアは？」

　戻って来たシェラートに、テトは問いを重ねた。「うん」とシェラートは頷き、テトの前に腰を下ろす。

「フィシュアは今、寝てる。ロシュがな、怪我をして動揺していたらしい」

「ロシュさんが？　大丈夫なの？」

「問題ない。明日になれば、よくなる。一応、朝に様子を見に行くからテトもその時一緒に行くか？」

　テトが首肯すると、シェラートは微苦笑した。

　出会ってから何度も見てきた表情だ。

　安心させるようシェラートが頭に手を置く。

　その仕草もいつもと同じはずなのに、馴染みであったはずの感覚の不可解さに、テトは驚き、まじまじとシェラートの顔を凝視した。

「……シェラート？」

「どうした？」

「フィシュ、ア、……？」

「え？」

　シェラートの不思議そうな声で、はたと我に返ったテトは一度首を横に振った。

　シェラートの腕に手を伸ばし、掴む。掴む手に力を込め、テトは言った。

「シェラート。僕、フィシュアのところに行きたい」

「――だけど、フィシュアは眠っているから話せないぞ？」

「うん。それでいい。フィシュアが何でもないんだってことを自分の目で確かめて、安心したいだけだから」

　シェラートはしばらく逡巡するように黙り込んだ。

「お願い」

　言い募り、テトはシェラートをひたと見据える。

　まもなく「わかった」と応じたシェラートが、テトの手をとった。

　フィシュアの寝室に着いてすぐ、テトはフィシュアの枕元へ急いだ。

「フィシュア」

　思わず呼びかけてしまい、テトは慌てて口をつぐむ。

　返事はなかった。

　よく眠っているのだろう。フィシュアの瞼は閉じられたまま、寝返りを打つ気配さえない。

　寝台の敷布に流れる薄茶の髪からは、ほのかに石鹸の香りがした。

　部屋に飛び込んで来た時には、驚くほど汚れていた衣服も清潔な寝着に変えられていた。

　切迫していた表情も今はとても和らいで見える。

　きっと大丈夫なんだろうと思ってはいたが、実際にフィシュアの無事を確認できたことは、テトに予想以上の安堵をもたらした。

　テトは、自分の家にあったものよりも少し脚の高い寝台によじ登ると、フィシュアの枕元に座り込んだ。

　いつも彼女がしてくれたように、テトは一度だけそっとフィシュアの額を撫でる。

　シェラートは、テトから数歩離れた場所で、その様子を眺めていた。

「よかった。本当は、まだ元気じゃないのかもしれないけど。……だけど、よかった」

　テトはほっと息を吐いた。

　それからフィシュアの右肩に目を移すと、ここに連れて来てもらった本来の目的を果たすべく、フィシュアの寝服の右肩部分をずらして下ろした。

　はだけて露わになったフィシュアの肩を見て、テトは不可解さに眉を寄せる。

「……フィシュアじゃ、ない」

　テトは、背後を振り返った。

「シェラート、契約したんだよね？　でも、フィシュアじゃなかった。誰と契約したの？」

　動揺することなく、確かな確信と共に口にされた問い。

　その内容は、シェラートに驚愕をもたらした。

「わかるのか、テト？」

　魔人（ジン）が刻む契約は通常、人間の目に見えるものではない。

　魔人（ジン）にしてみれば明らかな繋がりも、契約者以外の人間には認知できるはずがなく、無きに等しい。

　それは、魔人（ジン）と一度契約を結んだことがある者にとっても同じはずだ。

　契約が消えてしまえば、わかるものではない。

　だが、テトは頷いた。

「なんだか変な感じがした。契約が終わった時とは違う。でも、何かが完全に消えてなくなったような気がした」

　今までは、わずかに残っていた名残りのような繋がりがあった。

　それすら、今ではなくなっている。

　シェラートの双眸に映るものも、同じ翡翠色であるのに、どこか別物に見えた。

「そうか……」

「うん」

　テトが頷いたのを見て、シェラートは苦い思いがした。

「もしかしたら、契約だけでなく、テトの血を使ったからかもしれないな。その分、テトは俺の魔力に対して聡くなったのかもしれない」

　テトがまだ子どもであったことも影響しているのだろう。

　身体的にも精神的にも成長の余地が多い分、大人よりも外部からの刺激に順応しやすいところがある。

「怒ってるわけじゃないよ。お母さんに会わせてくれたこともね、すごく嬉しかったから」

「あぁ、わかっている。ありがとう」

　シェラートは寝台の縁に腰かけ、テトの隣に並んだ。

　一番近しかったはずの少年と対峙する。

「あのな、テト。テトの言う通りだ。新しい契約を結んだ。だから、上塗りされるようにテトとの間にあと少しだけ残っていた絆も完全に切れた。今までだったら、かつての契約を頼りにテトを追うこともできたが、それももう無理だな」

「……僕、気付いた時、シェラートはフィシュアと契約したんだと思ってた」

「持ちかけたとして、どちらにしろフィシュアは契約を拒んだだろうけどな」

　シェラートは苦笑する。

　テトは、ぱちくりと目を瞬かせた。

「そうなの？　でもフィシュア、前に契約しようって言ってたじゃないか」

「あの時はあの時だな」

　テトは頭を捻ったが、シェラートは軽く笑むだけで、それ以上は答えを教えてくれる気配がなかった。

「じゃあ、シェラートは誰と契約したの？」

　シェラートは、どう言おうか迷ったものの考えはまとまらず、結局一言「イオル」と契約者の名をテトに明かした。

「イオル？」

　復唱し、テトは記憶を辿ったが、その名に覚えがなかった。

　テトが思い出そうと奮闘しているのを見て、シェラートは「皇太子妃だ」と付け加えた。

「ここに来た日、一度会っただろう」

「ああ！　あの人か！」

　ようやく合点がいったテトは確かめるように数度頷いた。

　しかし、すぐに顔をしかめる。

「おかしいよ。一回しか会ったことがないじゃないか」

　面識はそれきりで、他には接点等なかった人物だ。

　少なくともテトには、ない。

　にも関わらず、シェラートが皇太子妃と契約を交わした理由がテトには思いつかなかった。

「どうして契約したの？」

「……情報が必要だった」

「情報？　何の？」

「このままここにいるにしろ、出て行くにしろ、何が起こっているのか把握しておかないと機会が掴めない。動けないことが、よくわかった」

「それだけ？　たったそれだけなの？　それなら」

　フィシュアに聞けばいいじゃないか、と言おうとしたテトの言葉の先を断ち切ったのはシェラートだった。

「そろそろ戻ろう、テト。ここに人を入れるなと言っていたから、誰かに気づかれると困る」

　シェラートの顔がフィシュアの方にそらされてしまった今、テトはもう口を閉ざすしかなかった。

「……うん」

　テトも柔らかな息づかいで眠るフィシュアへ目を移し、自分を納得させるべく頷いてみる。

「悪い」

　シェラートはテトを見ないまま、一、二度テトの頭を片手で軽く叩いた。

　何が悪いの、とテトはやはりシェラートに聞くことができなかった。

　ただ乱れたフィシュアの衣服を入室時と変わらぬよう、綺麗に整えなおしているシェラートの姿を、テトはぼんやりと眺めていた。

　寝支度を整えるまでの間、テトとシェラートは互いに口をきかなかった。

　二人の間に横たわっていたのは確かに互いを気遣うもので、だからこそ余計に相手に話しかけることをはばからせた。

　テトがようやく口を開いたのは、寝具の掛布に潜り込んだ時のことだった。

　テトは、向かいの寝台に同じように横になり、黙り込んだまま天井を見あげているシェラートをちらりと見て言った。

「――シェラート。ロシュさんのお見舞いに行くの忘れないでね」

　顔だけをこちらに向けてきたシェラートは、刹那、虚を突かれたような顔をした。

　けれども、かち合った目はすぐに和らぎ、シェラートは「ああ」と一言応じた。

「フィシュア……」

　テトは呟いて、何も映さない暗くぼやけた天井を見上げる。

「明日には元気になってるかな？」

「うん、……だと、いいな」

　静かに部屋に落ちた声に、テトは「うん」と頷き、夜空がはめ込まれたガラス窓へ視線をずらした。

「大丈夫。きっと元気になってるよ。だってフィシュアだもん」

　テトは気持ちを奮い立たせるように言う。

　なぜなら、フィシュアはいつも元気で、少し厳しくて、時には困ったように笑ってみせても、おかしそうに、おもしろそうに笑っている時の方がずっと多いのだ。

　だけど、唐突に無茶をしだすから、よくよく見ておかなければならない。

　少なくともフィシュアがテトに見せてくれた『フィシュア』という存在は、テトにとっては強さを感じさせる優しいものに他ならなかった。

　あの日――エルーカ村で三人揃って星を数えた日、野に出たフィシュアが夜空を見上げた途端、言った。

　恐いくらいの星ね、と。

　なんだか押しつぶされそう、と苦笑して。

　だが、言葉に反し、フィシュアはちっとも恐がっているようには見えなかった。

　夜空に向かって両手を広げたフィシュアは、まるで夜空にある星すべてを受けとめようとしているかのようだった。

　一緒に数えきれないと知っている星を数えた。

　シェラートは、東の大陸の神話の一つを教えてくれた。

　無数にある星のいくつかには、神が落っことした服のボタンが紛れ込んでいるのだ、と。

　落としてしまったボタンは星に綺麗に紛れ込んでしまったから、どれかわからなくなってしまった、と。

　おやすみ、とテトは普段と同じようにシェラートに声をかけた。

「あぁ、また明日な」

　向かいから穏やかな声が静かに返る。

　それでもテトは目を閉じることができずに、どこか憤然とした思いを抱えながら窓の外を見続けた。

（お母さん。ここからじゃ星は見えないよ）

　心の内でテトは一人呟く。

　小さな村では無数に見えた星たちも、ここでは鳴りを潜めてしまっているらしい。

　夜通し何かしらの灯りが点されている皇宮。

　それに加え、今宵、空に浮かぶのは、ひときわ輝く十六夜の月だ。

　星を眺めるには、今夜は空が明る過ぎた。

　ぽつぽつとであれば、光を発している星もあるにはある。

　けれど、この少なさでは星を数え終えてしまうような気がしてならなかった。

　だから、結局夜空の星がいくつあるのか――テトが知ることは今日もなかった。